姉ア神社の路3
(あねさきじんじゃのみち)
式内社姉ア神社を訪ねる 2007,04,07 | |
今回は式内社として有名な姉ア神社を訪れます。 姉崎の町を見下ろす台地上には、かつてこの地域を治めた首長層の埋葬地として、巨大な前方後円墳が築かれました。その聖域に鎮座する姉ア神社の由緒も古く、古墳に葬られた首長層とも関連があるのかもしれません。 伝承 社伝によると、日本武尊が東征のおり祀ったことが始まりとされています。天慶3年(940)には平将門の乱鎮圧のため、朱雀天皇が勅使を当社に派遣し祈祷を行ったと云い、このときの奉納と伝えられる太刀が宝物となっています。このほか源頼朝や源実朝の伝承も伝わっています。近世には松平三河守(結城秀康)が社殿を造営したと云います。 |
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姉ア神社の源頼朝伝説 治承4年(1180)8月、伊豆で挙兵した後、房総に上陸した源頼朝は、姉ア社前に兵を集め、流鏑馬の神事を行ったと云います。秋季祭礼で永く執行されてきた流鏑馬の神事はこうして始まったと伝えられています。 また、頼朝の息子で鎌倉幕府三代目将軍となった右大臣源実朝が痘瘡にかかり、使者を姉ア神社に立てて祈願したところ治癒したので、神官藤原兼祐を鎌倉に召し、鶴岡八幡宮の神主に補任した、と伝えられています。この後、実朝は毎年祈願を続けたと云い、氏子は痘瘡が流行すると必ず当神に祈願したそうです。 |
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歴史 姉ア神社の歴史は、実際に古代まで遡ると見てよいと思います。10世紀前葉に編さんされた官営神社事典の『延喜式』神名帳に「海上郡」として記載された「姉崎神社」が、今の姉ア神社の前身と考えられているからです。当時は国司の信仰も厚かったようで、これに遡る元慶元年(877)には「姉前神」が「嶋穴神」とともに正五位下に、同8年(884)には正五位上に叙されたことが『日本三代実録』に記されています。 中世以降も栄え、宮山遺跡からは鎌倉時代のカワラケが見つかっているほか、鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』の建永2年(1207)年2月11日条にも、姉前社住人兼祐が鶴岡八幡宮の神人に補任されたことが記載されています。 古代の官社として知られる姉ア神社ですが、国衙との関係は室町時代まで続きます。南北朝期の姉崎は、国衙領として「姉崎保」と呼ばれており、その得分(土地の収益)の一部に対する権利を「武田孫五郎長高」なる人物が持っていたこと、その後、信濃守護の小笠原氏の手に移り、代々相続したことが『小笠原文書』に記されています。ここでは国の徴税単位から発足したであろう「姉崎保」と、姉ア神社の社領を示す「姉崎社」が、同じ意味で記載されており、社領の成立に国衙が強く関係したものと考えられます。 さらに応安5年(1372)に行われた市原八幡宮の神事である五月会には、「姉崎社」から酒3瓶・菓子5合・粽(ちまき)3把を負担したことが『覚園寺文書』に記されています。封建領主としても勢力を持ったようで、神社南東に「馬場」という字名が残ることからも、中世後期においては姉崎地域の中心的な権力者であったようです。 近世になると領主の篤い庇護を受け、明治6年(1873)には木更津県の県社に定められました。 |
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![]() (上) 房総往還をJR姉崎駅前付近まで下ると、昔の姉ア神社参道への分岐点があります。写真左端、交通標識左の店舗の向こう側にある小径(赤い自動販売機の陰、自動車が見える)がそうです。 |
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![]() かつてこの小径は妙経寺の境内裏の木漏れ日をくぐり、まっすぐ姉ア神社まで通じていましたが、平成7年(1995)ごろからすっかり景観が変わり、通り抜けができなくなりました。画面奥の住宅区画で一旦行き止まります。 |
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(上) 住宅地によって途切れた参道に再び戻り、しばらく進むと「平成通り」(八幡椎津線)に分断されます。これを渡ると昭和48年(1973)に建立された大鳥居をくぐります。写真奥の山を「明神山」と呼び、頂上に神社があります。 | |
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(上) 杜の入口には石製の鳥居があります。 | (上) 鳥居東側の御手洗池には水が湧き、鯉が泳いでいます。参拝前に身を清める池だったそうです。 |
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 神社の森に囲まれて、昼なお暗く、神々しい感じよね。 ![]() 市街の近くに森があるって、いいよね。 ![]() |
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![]() ![]() (上) 参道石段を登り切ると急に開け、正面に拝殿が現れます。 (下) 横から見た社殿。左側が拝殿、右側が本殿で、中央の幣殿によって結ばれる「権現造り」です。昭和60年(1985)に惜しくも焼失し、新しく建てて替えられました。 |
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![]() ![]() ![]() 境内にはほかにも小型の円墳が3基あって、塚として残っているわ。見てみましょうよ。 |
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![]() (上) 御社(ごしゃ)1号墳。社殿からやや南に離れた台地の際にある小円墳で、大型前方後円墳の釈迦山古墳に北面します。 (右) 御社3号墳。社殿北側の小円墳で、塚として再利用され、浅間社が祀られています。頂上に登れば、富士山頂に登るのと同じ御利益があると伝えられているそうです。 (下) 御社2号墳。社殿北西の台地先端にあたる地点にあります。墳丘が崩れた所から、平安末期の常滑産広口壺と渥美産壺・片口鉢が発見されています。片口鉢は常滑広口壺か渥美壺の蓋として埋められたのでしょう。中には経などを納めたのでしょうか。古墳を改造した中世前期の塚として、貴重な宗教施設と言えます。麓に暮らす人々にとって、境内地は聖なる空間だったのでしょう。 |
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