姉ア神社の路1
(あねさきじんじゃのみち)

二子塚古墳を訪ねる
 伝承によれば、志那戸弁命(姉崎神社の祭神)には志那都比古命(島穴神社の祭神)という夫がいました。姉崎神は「すぐ帰る」と言って北に出かけた夫を待ち続けたので、この地を「姉崎」と呼ぶようになった、と伝えます。夫の島穴神はついに戻らず、妻はこれを恨んだので、姉崎神社境内には「待つ」に通ずる松を植えない、とされています。
町場の入口とバス停「大道下」
なるみちゃん、菅原孝標女 1(上) 姉崎神社は古代の文献にも見える式内社なので、付近に古代官道が通っていた可能性があります。神社北方にあたる房総往還付近には、古い主要道を示す「大道」という地名が今も残っています。

2-1(下) この付近の砂丘上には、大型前方後円墳の二子塚古墳があります。古墳時代の姉崎一帯は上海上国造が勢力を持っていたと考えられ、姉崎古墳群をその墓所に比定する説があります。二子塚古墳は姉崎古墳群のなかで最も大きく、墳丘の長軸は推定114m、取り巻く盾型の周溝は長軸161mあります。これは県内でも富津市内裏塚(墳丘全長144m)に次ぐ規模で、県の史跡に指定されています。出土した円筒埴輪から古墳時代中期前半の構築と見られ、姉崎古墳群の大型古墳としては唯一、海岸砂丘上に立地しています。
「大道下」バス停よ。車の進行方向が姉崎の町場。向かって道の左側が小字「大道」です。
この地名、古代道のなごりかしらね。
二子塚古墳を西上空から撮る
直弧文石枕(国重文)  1947年、大場磐雄氏が発掘調査を行い、前方部と後円部に埋葬施設を確認しています。副葬品には石枕や垂飾付耳飾、中国製の蟠地文鏡などの優品があり、特に直弧文石枕は意匠に優れ、国の重要文化財に指定されています。これらの遺物は現在、國學院大學考古學資料館で保管されています。
垂飾付耳飾 上海上国造の系譜を引いた豪族の奥津城ではないか、と言われるだけあって、スゴイ副葬品よね。
出土した埴輪も学術的に貴重なものなのよ。
夕日の二子塚古墳
二子塚古墳に接する山新遺跡は(財)市原市文化財センターで発掘調査しています。次に案内するわね。
日も暮れたようだし、今日はおしまいね。