菅原定義(すがわらのさだのり 兄)
兄は私の面倒をよく見てくれました。帰京のおり、「まつさと」で乳母を見舞ったときも、私を抱いてこっそり連れ出してくれました。
 私が年をとってからも、ずっと仲良い兄妹でしたよ。大嘗会(だいじょうえ)の御禊(ごけい)の日に初瀬参りに出かける私を、「よりによってこんな日に行かなくても」と腹立てながら止めたっけ。兄は和泉守に就任すると、前任国司の非道による国の疲弊を朝廷に奏上したりしています。常識人で曲がったことが嫌いな性格だったのですね。
 頭も良く勉強家でしたから、父がなれなかった大学頭と文章博士になり、家業を再興したんです。永承4年(1049)には、やはり父が望んでいた近国の国司(和泉守)になれたんですよ。嬉しいじゃありませんか。私も兄といっしょに和泉国司館で数ヶ月くらしましたが、心弾む旅でしたね。
菅原定義
孝標女と定義
 大嘗会は、天皇が即位し、神々に穀物を供える行事で、御禊とは天皇が河で身を清める儀式を指します。
 『更級日記』では、この日に初瀬(奈良の長谷寺)参りしようとする作者を「はらから」が注意する場面があります。「はらから」とは兄弟のことで、定義の可能性があります。
 定義が和泉守に就任した年代は永承4年(1049)から同8年(1053)と考えられます。
 『更級日記』では定義の任官について一切述べられていませんが、作者が「さるべきやうありて」和泉国に下向し、数ヶ月滞在した様子が紀行文的に記されています。
 下向の途中、一行の舟に遊女達が漕ぎ寄せてきたこと、和泉国府の在庁官人たちが彼女に二重敬語まで使っていることなどから、国守を拝命した兄と共に下向した、あるいは訪問したものと考えられています。
貅門y荳ュ