菅原孝標女生誕1000年記念特集
更級日記座談会


第1回 『更級日記』と上総

 今年、2008年は『更級日記』(さらしなにっき)の著作で名高い菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ)の生誕千年にあたります。

 市原は『更級日記』始まりの地であり、孝標女にとって特別な場所に思えます。

 そこで生誕千年を記念して、「更級いちはら紀行」スタッフで更級座談会を企画しました。
こんにちは、なるみです。さとし学芸員といっしょに、菅原孝標女と市原について語り合おうと思います。
さとし学芸員です。二人とも古典文学に対しては素人であることを申し上げておきます。
 僕は考古学が専門なのですが、畑の違う立場から、楽しく取り組ませていただきたいと思います。
 古典の分野にお詳しい方には申し訳ないのですが、どうか暖かい目で見守ってください。
さとし学芸員、なるみ女史
菅原孝標女像、JR五井駅東口(更級通り)菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ)Profile
 寛弘5年(1008)、都の中流貴族だった菅原孝標(すがわらのたかすえ)の次女として生まれました。本名はわかっていません。『更級日記』の作者として知られるほか、『夜半の寝覚』(よわのねざめ)や『浜松中納言物語』などの作者とも言われています。
 菅原氏は大学頭や文章博士を代々務める学問の家柄で、兄定義もこれらの職に任命されています。また、母方の伯母に『蜻蛉日記』を記した藤原道綱母がおり、父孝標が上総下向に連れそった継母は、後に「上総大輔」と呼ばれる歌人でした。このような環境は、孝標女の物語への傾倒に大きな影響を与えたものと考えられています。
『更級日記』(さらしなにっき)
 寛仁4年(1020)、父の上総介の任期が終わり、市原を旅だった13歳の少女時代から、夫を失ない孤独になるまで40年間を書き綴った回顧記。作者は物語を耽読し、『源氏物語』の登場人物「浮舟」にあこがれる夢多き少女でしたが、親しかった継母との別れ、愛する乳母や姉の死、家の火事など、現実の世界は厳しいものでした。あこがれの世界で生きるためには、父の出世が望まれましたが、その父も常陸国司を務めた後に引退、母も出家してしまいます。作者には、もう夢ばかり追い続けて暮らすことは許されません。一家の主婦としての現実に直面したのです。しぶしぶ出仕した宮仕えにもそれなりの期待はありましたが、親に辞めさせられ、夫を迎えます。不本意な現実を嘆いてみたところで人生が変わるわけでもなく、やがて作者は夫の出世と子の成長を思い、一家の幸福を願って物詣でに精を出すようになります。作者はようやく物語的世界とちがう現実的な夢を追うことになったのでした。しかしやっとのことで信濃守に任命された夫が急死し、作者はどん底に突き落とされます。作者が長年見てきた現世利益の夢はことごとく潰え、深い絶望のみが残るのでした。
 この事件に先立つ天喜3年(1055)、作者は阿弥陀来迎の夢を見ています。夫の死後、孤独になった作者は、唯一この夢を頼みに余生を過ごすのでした。極楽往生、来世に夢をつないだのです。
 作品の終盤、孤独な作者を訪ねた甥に歌を送る場面があります。
 
  月もいででやみに暮れたる姨捨に
          何とて今宵たづね来つるらむ

 この姨捨山は夫が晩年に国司を務めた信濃国の更級郡にあり、作品名の由来となりました。
 この作品は、受領階層の娘がたどる人生の現実を切なく表現しており、諦観の調べも心地よく感じます。要所要所に見える巧みな月の描写が印象的です。
 『更級日記』は、菅原孝標女が少女時代から五十代までにおよぶ生涯の回顧を記した日記文学です。
 作者の一家は都の中流貴族でしたが、父親の菅原孝標が寛仁元年(1017)から4年(1020)まで上総介(かずさのすけ)として上総国府に赴任したことから、作者と兄、姉、継母も4年間この地で暮らしました。『更級日記』は、ここでの生活からスタートします。
僕は古典文学に対する知識はあまり無いけれど、僕たちの住む市原市は『更級日記』書き出しの地であることから、けっこう興味があって、何度か読んだことはあります。
あ、私もそうです。『更級日記』って、高校の教科書で取り上げられたからかしら?なんだか親しみやすさを感じません?
作者の行動や考えが、われわれにも素直に共感できるからじゃない?
あこがれの『源氏物語』全帖を手に入れるや、几帳の内に寝転んで一日中読みふける。もう頭の中は物語の世界でいっぱい。親に「物語ばかりに夢中になっていないで、他の年頃の娘と同じように、読経や勤行をマジメに勤めたらどうなの」と言われていたかどうかはわからないけれど、その件については本人も後ろめたさを引きずっていますね。
「法華経の第五巻を早く習いなさい」と、お坊様に諭される夢を見たりしてね。
菅原孝標
上総国司だった菅原孝標
 今の都道府県にあたる行政区分として、当時は全国が六十六の「国」に分けられていました。各国には「国司」(こくし)と呼ばれる役人が中央政府から派遣されました。長官の「守」(かみ)は都の中流貴族が任命されました。『更級日記』作者の父、菅原孝標もその一人です。孝標の官職は「上総介」(かずさのすけ)。後には「常陸介」(ひたちのすけ)も務めます。「介」(すけ)は次官職なのですが、上総・常陸両国の場合、長官職の「守」は皇族が名目的に任ぜられる「親王任国」(しんのうにんこく)なので、次官の「介」を他国の「守」と同じ地位とします。
 わたしたちの市原市は上総国の中心地として、今の県庁にあたる国府(こくふ)が置かれた場所です。したがって上総介となった菅原孝標は、都からはるばる市原の地に赴任したことになります。菅原孝標女も父の任期が終えるまでの4年間、市原で生活したのでした。
源氏物語を耽読する菅原孝標女
 孝標女がやっとの思いで源氏物語全帖を入手し、日夜耽読するこの場面は、更級日記のなかで最も有名なのではないでしょうか。

それでも物語的な空想や耽読を止めることができず・・、いや、止めようとなんかしていない。
 似たような経験、私にもありますよ。
少女漫画や小説ばかり読みふけっていないで勉強しなきゃ、受験もあるし。でも止められない、みたいな?
まあ、そんなところかしら。ところで『更級日記』の作者があこがれた『源氏物語』の女性って、「夕顔」と「浮舟」でしょ? 普通の『源氏』読者が理想にしそうな「紫上」ではないところがおもしろいですね。
見逃せないのが、夕顔と浮舟の生い立ちだよね。
あまり身分が高くない? 孝標女にとって、同じような階層の彼女たちのほうが感情移入しやすかったのでしょうか。『更級日記』で作者は「私は今でこそ魅力に乏しいけれど、きっと年頃になれば美しくなって、高貴な殿方と恋に落ち、夕顔や浮舟のような生涯を送れたら素敵だわ」なんて言ってますよね。夕顔と浮舟は悲劇的な結末をむかえるのだけれど、そこには目をつぶっていることがほほえましいですね。いや、悲劇性も含めた憧れなのかな。作者は幸薄くともドラマチックな人生に惹かれていたのかも。
 ああ、そういえば、夕顔は作者が源氏物語の耽読を始めた頃に語られるだけで、その後、作者の理想像は浮舟に一本化されていきますね。なぜかしら。
浮舟は常陸介の養女として東国から現れた設定だからねえ。
さとし学芸員

『源氏物語』(げんじものがたり)
 女流作家「紫式部」(むらさきしきぶ 937頃〜没年不明)が書いた小説で、全五十四帖(じょう)、正編と続編に分かれ、1010年頃に成立したとされています。
 正編では、天皇の子でありながら皇位継承の道を閉ざされた美男子光源氏(ひかるげんじ)が、紆余曲折を経つつ王権の中枢に返り咲く物語です。しかし源氏は、表面の栄華とはうらはらに苦悩の晩年を迎え、生涯を閉じます。
 続編は、源氏の妻の不義の子薫(かおる)と源氏の孫匂宮(におうのみや)が、宇治八宮(うじのはちのみや)の三人娘をめぐる人間関係を軸に展開します。
 作者紫式部は国司階級で文人として知られる藤原為時(ふじわらのためとき)の娘。夫と死別してから『源氏物語』の執筆を始めます。上流貴族の藤原道長(ふじわらのみちなが)に才能を認められ、道長の娘で天皇の后となった中宮彰子のサロンに出仕します。『紫式部日記』や『紫式部集』を記したことでも知られています。
 ちなみに孝標女に文学的な教養を与えたと思われる継母上総大輔(かずさのたいふ)は、紫式部の娘、大弐三位の義理の姪になります。


浮舟に憧れる

夕顔・紫上・浮舟
 光源氏は父の後妻藤壷(ふじつぼ)を理想の女性としながら、妻に迎えた葵上(あおいのうえ)への不満もあり、中流階級の女性との恋愛に走ります。夕顔(ゆうがお)はその一人として登場し、結果として非業の死を遂げてしまいます。病を患った光源氏は治療に訪れた北山で理想の藤壺そっくりの少女と出会い、養育します。彼女が紫上(むらさきのうえ)で、理想的な女性として描かれ、光源氏の実質的な正妻になります。浮舟(うきふね)は宇治に零落していた光源氏の弟、宇治八宮の末娘です。八宮に認知されない出生で、常陸介の養女として東国で成長します。薫と匂宮との三角関係に悩み、自殺を図りますが果たせず、出家します。
なるほど。作者の父、菅原孝標も常陸介になっていますものね。『更級日記』は、あこがれの「浮舟の女君」と同じ常陸介の娘である作者が、浮舟同様に東国から登場する、ということを意識して書かれたものなのでしょうか。孝標女は都で生まれ育った人なのに、どうして『更級日記』が上総から始まるのか、不思議だったのですが、それならば理解しやすい。
それは『更級日記』のプロローグからも見て取れると思うよ。
なるみ女史
「あづま路の道のはてよりも、なほ奥つ方に生ひ出たる人、いかばかりかはあやしかりけむを・・」
 この「あづま路の道のはて」って、常陸国のことですものね。
これは「あづまぢの道の果てなる常陸帯のかごとばかりもあひ見てしがな」という『古今六帖』の紀友則の歌から引いたものだ。
 「常陸帯」とは常陸国鹿島神宮で用いられた男女の縁を占う帯のことで、「常陸帯の神事を口実にしてでも、ほんの少しで良いからあの人に逢いたい」という感じの恋歌。
 古典文学研究者の犬養廉さんは、孝標女が『更級日記』の冒頭にこの歌を引いたのは、単なる文飾ではなく、浮舟の生涯に焦がれながらも、現実的な選択の結果、結婚に妥協せざるを得なかったストーリーの伏線と捉えられている。
 「あの浮舟が育った常陸国よりもさらに奥地から生い出た人(私)」という感じかな。
当時の父の任国だった上総国の名を出さず、「常陸国より奥」といった、おぼろげな表現については、ずっと不思議に思っていました。
 地理的に見たって、上総は常陸より奥地とは言えないでしょう?
 でも、そのような表現上の思惑があるのであれば、理解できますね。

 さて、作者にとって常陸国にこだわりがあったことはわかりましたよ。
 しかしそれでは、彼女が実際住んでいた上総国に対する想いはどうだったのかしら。
 物語中では「(常陸国よりも)なお奥の方」とういう表現のみで、「上総国」なんて一言も書いていないじゃないですか。
 上総国は作者にとって、あまり重要ではなかった、ということになってしまうのでは?
そんなことはないでしょう。
 彼女にとっては常陸も上総も特別なのだ、と思えるね。
 『更級日記』は読者を意識した文学作品なのであって、上総の国名を出さないのは、自らの生い立ちをおぼろげに見せる技法でしょう?
 「なほ奥つ方に生ひ出たる人」なんて、自分を三人称で表しているのもそうだよね。
 文学である以上は、特定のテーマに沿って自分の生涯の出来事を厳しく取捨選択しているわけで、その結果完成した物語が、仮に国名をぼかしていたとしても、事実上、上総国司館(かずさこくしのたち)から始まっているということは、やはり作者にとって、ここでの生活が自分自身の人格を形成する上で重要だったと見るべきじゃないか?
物語に憧れる菅原孝標女 菅原孝標女は上総国司館での生活のなかで、姉と継母が語り合う物語のあれこれを聞き、強い憧れを抱くようになります。早く都に上ってありったけの物語を読んでみたい・・ 『更級日記』はこうして始まるのでした。
なるほど。
 上総国司館は、作者の物語に対する憧憬が始まった地ですものね。
 数え年で10歳から13歳までをここで暮らした。
 今の子で言えば、ちょうど小学校3年生から6年生までの時期になります。
 『更級日記』では、都にあこがれる心とうらはらに、多感な時期に親しんだ土地への愛着も見て取れますね。
次回は上総での孝標一家の住まいについて、語り合いたいと思います。
文献
犬養 廉 1969 「更級日記の虚構性 ―実人生とその自画像―」『國文学』第十四巻第六号 學燈社
犬養 廉他 1994 『和泉式部日記 紫式部日記 更級日記 讃岐典侍日記』新編日本古典文学全集26 小学館