遺跡の深層
43 古代道路の三叉路 山田橋表通遺跡と大山台遺跡 近藤 敏
遺跡所在地:山田橋
時代:奈良・平安時代
地形に残された古代の道
 写真は、山田橋地区東部の1979年当時の様子です。現在の市原市防災センター付近にあたります。右下隅に見えている水面は山倉ダム、左側縦の道路は国道297号線です。写真をよく観察すると、AからBを抜けてCに至る帯状の区画が見てとれないでしょうか?
山田橋大山台遺跡航空写真
 じつは、この帯状に見える部分は、奈良時代にはすでに建設され、平安時代まで利用された古代の道の跡です。
 この古代道は、1985年(山田橋表通おもてみち遺跡)と1997年(山田橋大山台おおやまで遺跡)の発掘調査によって存在が明らかになりました。(詳細は各報告書をどうぞ)。
 ここでは、その成果の一部を紹介します。
山田橋表通遺跡・山田橋大山台遺跡の発掘調査全体図
古代道路の平面図(山田橋表通・大山台遺跡調査区結合)

発掘された古代の道路
 上の図は航空写真のB地点に当たる付近の調査された平面図になります。上半分の赤い○が、市道稲荷台通りの部分の山田橋表通遺跡、ちょうどB地点が分岐点となっており、幅6mと幅4mの道路が三叉路になっています。
 分岐した道路は、南方向と南東方向に別れて続くことが、のちの大山台遺跡の調査時にわかりました。ア・イ・ウが表通遺跡の調査当時の写真です。
 青色△が幅4m道路から幅2m道路へ、大山台遺跡から分岐して、表通遺跡へ向かう部分です。2つの調査では古代道路付近に、奈良平安時代の建物は検出されず、この地区では道路は市街地を抜けています。
 エ・オ・カが大山台遺跡調査時の写真です。

山田橋表通遺跡調査区航空写真
写真ア 調査区外上側の畑に道路幅の帯状跡が観察される
山田橋表通遺跡道路分岐
写真イ 分岐路はY字状になっており、道路面上に轍(わだち)の跡が筋状に残される

山田橋表通遺跡古代道

墨書須恵器実測図おかたち

写真ウ 深い溝は中世に再掘削された

 深い溝は中世にあらためて掘削されたものですが、写真の上部分では古代に属するとみられる溝が確認されており、道路に伴う排水施設だった可能性があります。
 この溝からは奈良時代後半の須恵器(上図面)の岡館(おか/こう、たち/やかた)と書かれた墨書土器が出土しています。しかし、発掘調査の平面図に示すように、奈良平安時代の建物群などの施設は検出されていません。近隣の同時代の遺跡としては、千草山廃寺跡を挙げられますが、墨書土器との関係は不明です。

山田橋大山台遺跡航空写真

写真エ 大山台遺跡空撮(平成9年当時) 右下がりの道路は稲荷台通り、右上がりの道路は国道297号線。
写真上が南方向で、調査区中央に幅6m、左に幅4mの古代の道路が見える。

 古代道路の研究では、幅6mの道路は、幹線である駅路(えきろ=地方と中央を連絡=国衙と都の通信)から分岐した、伝路(でんろ=国衙と郡衙の連絡=地方道)と推定されています。表通遺跡と大山台遺跡から検出された古代道路は、伝路にあたるのでしょう。
山田橋大山台遺跡古代道路

写真オ 左の現道は表通遺跡調査区にあたる。中央、深い部分が幅6mの南下する古代道。
調査区左側に幅4mの古代道が東へ分岐する。

山田橋大山台遺跡古代道分岐地点

写真カ 調査区平面図青色△にあたる。4m道路がさらに2m道路に分岐する部分。
斜線状の撹乱はゴボウの耕作によるもの。

 各調査区でとらえられた道路跡は、幅6m(20尺)の伝路から分岐した幅4m(12尺)の道路が、さらに幅2m(6尺)の道路に枝分かれしています。それらは現代の国道から県道、さらに市道や町道へ、というように、生活道路に近くなるに従い細くなるのと同様だったことを示しているようです。
 遺跡で明らかになった道路の幅の変化は、古代の交通経路や政治的な意識を反映したものと見られ、その道路が、当時どのような道として認識されていたかを示す可能性が高いと考えられます。
 山田橋で見つかった古代道路は、市原市の奈良・平安時代の研究に欠かせない重要な資料と言えるでしょう。
参考文献
田中清美1989「第1号溝状遺構」『千草山遺跡・東千草山遺跡』(財)市原市文化財センター
田所真1997「山田亥の海道遺跡」『市原市文化財センター遺跡発表要旨』第12回(財)市原市文化財センター
蜂屋孝之・小橋健司1999「060・061号跡」『山田橋表道遺跡』(財)市原市文化財センター
大村直2004「1・2・3号溝」『市原市山田橋大山台遺跡』市原市(財)市原市文化財センター
辻史郎・山路直充「上総国」『日本古代道路事典』古代交通研究会編 八木書店
薬師如来坐像 姉崎神社