遺跡の深層
36 山田橋大山台遺跡から検出された環状炉穴遺構群 近藤 敏
遺跡所在地:山田橋
時代:縄文時代
 縄文時代は約1万年継続して続き、その前半分の約5千年間が縄文時代早期と呼ばれる時代です。
 最終氷河期が終わり、約1万3千年前から次第に温暖化して、現在の第四間氷期が始まりました。縄文時代早期後半は、現在とほぼ同じくらいの気侯であったと推測されます。
 寒い氷河期から暖かい方向への気侯変化は、日本列島の豊かな自然につながる第一歩でした。その中で海水面上昇に伴い縄文海進が進み、奥東京湾が形成され、山田橋大山台遺跡の縄文時代早期後半の時期は、海洋水産資源獲得の新しい縄文的環境が整うことになったのです。 
大山台遺跡周辺の航空写真
空中から見た山田橋大山台遺跡の位置
(赤色の枠内が発掘調査範囲、橙色の円部分が炉穴分布範囲)、右下は山倉ダム)

 野外に楕円形の穴を掘り、火を焚き、拠点化したキャンプを形成していく段階は、ノマド(放浪)と呼ばれる遊動的生活から、竪穴住居をつくって集落を形成し、定住生活を開始するまでの途中過程にあたり、山田橋大山台遺跡の炉穴遺構もこの時期に相当します。
花和田遺跡の炉穴 
新井花和田遺跡の炉穴
(赤くなった部分は火を焚いた跡)
 山田橋大山台遺跡から検出された30基を超える炉穴は一時期に形成されたものではなく、ある期間同じ場所に集まり、円形を意識して順時配置されたものと考えられます。これらの配列が結果的にドーナツ型となり、縄文時代前期以降集落の住居跡の環状配列につながると推測されます。
 下図の炉穴群中から検出されている竪穴住居は縄文時代中期後半のもので、炉穴と同時期のものではありません。早期後半の炉穴の時期は、竪穴状の浅い掘り込みのある地床炉のないテント的な住居が想定されています。縄文時代前期以降の集落には墓域が付属しますが、縄文時代早期の段階では定住を意味する集団墓地は検出されていないのです。
炉穴遺構群の分布図
山田橋大山台遺跡西側区域に検出された炉穴遺構群
橙色の円は直径約80m。直径40m黄色の円の内側には炉穴はなく、広場となる)
 発掘調査では出土遺物の位置を記録し、遺構ごとの帰属を確認して遺構の時期を決定します。山田橋大山台遺跡は、縄文時代から奈良平安時代までの各時期の遺構が形成された複合遺跡と呼ばれる遺跡で、すべての遺構を1枚の図に示すと下図のようになります。
 ここから縄文時代早期の炉穴遺構を抽出することによって、環状に配列された炉穴遺構の存在を明らかにすることができるのです。市原市内では海保野口遺跡からも、縄文時代早期の環状炉穴遺構群2ヶ所が報告されています。
大山台遺跡の遺構分布図
山田橋大山台遺跡西側区域の遺構平面図
(橙色の円が炉穴遺構)
 市内では今富大作頭遺跡からも同時期の集落が報告され、関東地方でも資料の少ない縄文時代早期子母口式土器の主要な研究地域となっています。また、新井花和田遺跡では同時期の竪穴住居跡の好例が検出され、出土遺物からも大変注目されています。縄文土器では現在研究が進む分野であり、埼玉県(斉藤1987)でも成果が発表されています。
 縄文早期後半から末には繊維土器と呼ばれる土器が作られるようになり、土器が大型化して盛んに煮炊きが始まるようです。これらは海水を利用したある種の煮込み作業が土器の用途に加わったとも考えられます。
31号炉穴出土土器実測図31号炉穴出土土器
山田橋大山台遺跡31号炉穴出土の子母口式土器
21号炉穴出土土器実測図21号炉穴出土土器
山田橋大山台遺跡21号炉穴出土の子母口式から野島式への過渡期文様のある土器
参考・引用文献
大村直・西野雅人ほか 2004年 「市原市大山台遺跡」 (財)市原市文化財センター
加納 実 1999年 「東関東自動車道(千葉・富津線)埋蔵文化財調査報告書3 (市原市大作頭遺跡) (財)千葉県文化財センター第355集
斉藤悟朗 1987年 「叺原遺跡の野島式土器の様相」『叺原遺跡(考察編)』 川口市教育委員会
高橋康男・牧野光隆 2001年 「市原市新井花和田遺跡」 (財)市原市文化財センター
森本和男・新田浩三・川島利道 1998年 「東関東自動車道(千葉・富津線)埋蔵文化財調査報告書1(海保野口遺跡) (財)千葉県文化財センター第335集
薬師如来坐像 姉崎神社