遺跡の深層
3 西広貝塚出土の貝輪(ブレスレット) 忍澤成視
西広貝塚出土の貝輪
 縄文時代には、ブレスレットの素材として貝殻がよく使われました。一般に「貝輪」と呼ばれるアクセサリーです。西広貝塚では、縄文後期(今から3,500年ほど前)に使われた貝輪がたくさんみつかっています。
 西広貝塚にくらした人たちは、東京湾に面した広い干潟でハマグリやアサリなどたくさんの貝類を日々採集し、貴重な食糧源としていました。と同時に、食べたあとの貝殻は魚のウロコを落としたり、肉を切ったりする道具、そして土器を作るときに表面をみがく道具などに使っていました。このように、いろいろな貝殻に日常的に接していたわけですが、貝輪の素材となった貝について詳しく調べてみると、こういったムラの近くの海で簡単にとれる貝がほとんど使われていないことに気づきます。つまり、貝輪(ブレスレット)に適した大きさ・かたち・強度をもった貝殻は、内湾の波静かな海ではなかなかみられなかったのです。
 それでは一体、当時の人たちは、どこから貝輪に適した貝を手に入れていたのでしょうか。外洋の海、千葉県では九十九里浜に代表される砂浜の海岸には、内湾とは全く異なる貝類がすんでいます。焼きハマグリで有名なチョウセンハマグリや地元で「ながらみ」といって親しまれているダンベイキサゴなどはその代表です。そしてこれらと同じような場所にすむ貝類に、ベンケイガイとサトウガイがあります。どちらも水深のやや深い砂地にすむため、内湾の干潟でおこなう「潮干狩り」のような方法では決して採ることができません。当時の人たちは、これらの貝が死んで貝殻が波打ち際に打ち上がる場所をみつけ、そこから貝輪の材料となる貝を手に入れたのでした。外洋の海は、内湾の海とは比べものにならないほど常に激しい波が海岸に打ち寄せます。そしてこの時、水底にたまった生物の死骸や水面に浮かぶ漂流物を特定の場所に集めるのです。台風の直後や冬場の時化(しけ)の後は、このような「打ち上げ貝」を手に入れる絶好のチャンスです。一度に何十・何百もの貝を拾うこともめずらしくはなかったでしょう。ただし、こういった場所は外洋のどこの海岸にもあるわけではなく、潮の流れの方向や海底の地形などに大きく左右されるため、コンスタントに多量の打ち上げ貝があがる場所は極めて限定されます。貝輪の素材に適した貝をたくさん手に入れるためには、そういった場所を知り、遠方の海に出かける必要があったのです。
復元製作品
 そうまでして手に入れようとした貝には、ある特徴があります。「サトウガイ」は、白い貝殻で放射状にのびた溝と畝が等間隔に並ぶ美しい貝です(上写真左下、下写真左)。アカガイやサルボウガイなどとともにフネガイ科というなかまに属しますが、そのなかでは最も厚く丈夫な殻をもちます。「ベンケイガイ」は、褐色の色合いで、殻は丸く大きく、しかも厚く非常に丈夫です。殻が極めて頑丈にできていることから「弁慶」の名がついたほどです(上写真上)。 サトウガイ・ベンケイガイともに磨けば磨くほど光沢を増し、独特の風合いがあります。海岸に打ち上げられた貝には、長い間水と砂にもまれているうちに殻表面が非常になめらかになったものが多くみられます。このように、貝輪の素材としては、大きさ・かたち・丈夫さ・色合い、そして自然が作り出すこの質感が重要でした。
 これら貝輪に適した条件を全て満たすベンケイガイは、東日本では縄文後期以降爆発的に流行します。そしてさらにこのころ、多くの人びとを魅了したのが「オオツタノハ」という貝でした(上写真右下)。この貝は、波当たりの激しい断崖にすみ、このあたりでは伊豆諸島の南部(八丈島など)にしか生息しない特異な貝です。卵形で大きく厚く丈夫な殻をもち、殻表面にはたくさんの放射状の畝があり、磨くと淡いピンク色をしています。ベンケイガイにはない色あいや質感、そして何よりその希少価値をもとめ、人びとはついに丸木舟で黒潮を横断し、はるか遠い島を目指したのでした。この貝殻でつくった貝輪は、遠く北海道の遺跡からもみつかっています。
 貝輪の素材を通じて、良質な素材を得るためには手段を選ばないという人類の飽くなき本能と、貝に対する当時の人びとの並はずれた執着心を知ることができます。