遺跡の深層
20 菊間手永貝塚の縄文時代集団墓地への招待 近藤 敏
遺跡所在地:菊間
時代:縄文時代
はじめに
 1972年8月24日(木)の読売新聞の京葉版(第13版)には、『縄文時代の人骨続々・市原市の手永貝塚』、さらに『初の集団埋葬地?』の見出しがあり、全国的にも貴重な遺跡であることが報じられています。
 その遺跡は、市原市北部の大字菊間地区の村田川に隣接する台地上にありました。
 手永貝塚遺跡は、主に昭和47年度(1972年)と、昭和58年度に下水処理場関連工事に伴って調査され、それらの調査成果は当HP上にも公開されています(近藤ほか1987・2003)。
菊間手永貝塚
調査途上の菊間手永貝塚空撮・1972年夏頃(オレンジ色の円内の白い覆いが人骨検出地点)
集団墓地がなぜ特異なのか?
 縄文時代の埋葬された人骨については、日本の酸性土壌において貝塚遺跡以外ではほとんど遺存することがありません。
 関東地方でも貝塚遺跡が非常に多い千葉県においても人骨の調査検出は、墓域を形成する程のまとまりを、認識する調査検出例はありませんでした。遺体が埋葬後人骨となりそれらがまとめられて、集中して土坑にある調査例はありましたが、埋葬した状態で、ある範囲で集中して集団墓地を形成する調査検出例は、1972年当時知られていなかったのです。

菊間手永貝塚の検出された縄文時代の人骨群とは!
 遺跡は、縄文時代後期前半から晩期中葉までの典型的な環状集落といわれるもので、中央に凹地の広場があり、周囲の微高地に点在するように、後期19軒と晩期7軒の住居跡がありました。
 下図の四方に囲まれた部分に53体、それ以外の場所に21体あり、全体では82体の縄文時代の人骨が検出されました。
 それらが約120m四方(14,400平方メートル)の集落内に、全体の約65パーセントの人骨が、約14m四方の墓域(196平方メートル)に埋葬されていました。その中には、イノシシの幼体も1体含まれています。
 墓域は、縄文時代後期前半の堀之内1式土器が含まれる住居跡を敷地にしています。そのため、堀ノ内1式期後に墓地形成がはじまったと考えられます。
 それらは、同じ墓域を形成した茂原市の下太田貝塚遺跡の事例と合致することがわかってきました。菊間手永貝塚の調査成果は、30年後の下太田貝塚の調査成果が公表され、初めて検証されました。埋蔵文化財の調査成果は、絶え間なく、引き続き検証されることがとても大切で必要なことなのです。
菊間手永貝塚の縄文時代遺構分布図
菊間手永貝塚縄文時代遺構分布と集団墓の位置
特定の時期性のある集団墓地として方形の範囲が認識された!!
 茂原市下太田貝塚の調査成果(菅谷ほか2003)からは、縄文時代中期は放射状に円を描く墓地、後期前半は土器棺に納め再葬される、後期中葉時期は手永貝塚と同じ方形区画内に埋葬することが、報告されました。
 下太田貝塚例では、それら時期が異なる葬法が同じ場所で、重層して上下の関係で検出確認されたことが重要で、時期ごとの葬法の変化が明確に調査検出されたのです。
 その墓地は結果的に方形区画内に納まるように配置されたものですが、恐らく規則や目印があってはじめてその形になる訳です。
 縄文時代では、遺体に副葬されるものが少なく時期決定が困難ですが、埋葬方法よって時期判断ができる事例が広く認知されたわけです。
 方形区画墓域内の人骨は、男性21体、女性26体、小児4体、成人性別不明2体です。
 そのうち左手首に1点のサトウガイ製貝輪を嵌めていたものが84号人骨、アオウミガメ坐骨の有孔垂飾1対を有していた2号人骨があります。
 これらの埋葬された人々が、区画内で埋葬された事実そのモノから、その人たちを弔う人の生活がコトとして叙述されるのは、これからの研究の課題です。
菊間手永遺跡の人骨
菊間手永貝塚遺跡の人骨群と墓域とその範囲
青印 男性の頭位地   赤印 女性の頭位地   緑印 小児の頭位置   水色の方形線=墓域の範囲
 住居跡の01号、02号、は縄文時代後期前半の堀ノ内1式期、68・69号は堀ノ内2式期の住居です。03・011号は縄文時代晩期の住居跡と考えられます。
 斜面貝層のN26・O26・N27・O27区では、貝層下部に堀ノ内2式の土器が多く検出されることから、貝層の形成時期はそれ以後の時期となり、台地上第4グリッド貝層の貝層には加曾利B式土器が出土しています。

『モノからコトへ』は、最近の科学の命題ですが??
 物質文化の研究である考古学は、埋蔵文化財発掘調査及び整理報告の基本的な道具です。
 しかし近年の科学技術の発達は、自然科学特に生命科学に飛躍的な技術的進歩をもたらしました。
 茂原市の下太田貝塚の報告書には分析編として縄文人骨の形質的分析や歯冠計測のほかに、DNA分析が掲載されています。
 それらは、残された人骨から先進科学によって情報を引き出す作業です。それらから人類学的研究も進み、考古学における歴史的叙述も可能になるのでしょう(堀越2010)。
菊間手永貝塚
菊間手永貝塚遺跡調査終了前の垂直空中写真(1973年冬頃)
引用参考文献
近藤 敏ほか 1987 「縄文時代出土人骨と墓域」 菊間手永貝塚p65 (財)市原市文化財センター
近藤 敏 2003 「菊間手永貝塚出土遺物補遺」 市原市文化財センター研究紀要IVp5同上
菅谷通保ほか 2003 「第5章墓域と人骨」下太田貝塚p38 (財)総南文化財センター
加藤久雄ほか2003 「歯冠計測からみた下太田貝塚出土縄文人の血縁関係の推定」 同上
篠田謙一 2003 「千葉県茂原市下太田貝塚出土縄文人のDNA分析」 同上
堀越正行 2010 「中妻の98人」 房総の考古学p63 史館同人 (株)六一書房
薬師如来坐像 姉崎神社