遺跡の深層
1 白船城の主 櫻井敦史
 文字通り船のような形の独立丘陵を東西に3条の空堀で切り、4つの曲輪を並べる堅固な造りです。この一帯は市原城跡・能満城跡など、小規模な城館が群をなしていますが、白船城跡は他より城郭として整った造りになっています。広大な海岸平野に流出する水路口を押さえており、農業を監督するためには重要な立地にあると言えます。
 発掘調査(第3次)により、北端郭に掘立柱建物跡と地下式坑群が発見されました。発掘調査報告書(註1)を作った頃は、地下式坑を葬式に関わる施設と考える意見が強かったため、「墓域を取り込んだ城郭」と報告していますが、実際は屋敷内の倉庫施設と考えたほうが良いかもしれません。出土遺物はあまり豊富ではありませんが、古瀬戸後期様式IV期新段階(15世紀後葉から末)のものが多く、瀬戸・美濃地方で焼かれた擂鉢や天目茶碗、中国で焼かれた青磁花生や碗、白磁皿、地元で焼かれたカワラケなどが発見されました。全体のなかでカワラケの占める割合が高いことが特徴で、一定量出土していますが、一括廃棄遺構が検出されたわけではないので、宴会のようなハレの場における大量消費を想定するか否かは微妙なところです。ちなみに本遺跡のカワラケは、関東足利氏との関連が指摘されている下総生実城跡出土のグループ(註2)と同じ形状のものなので、研究が進めば、政治史との繋がりが追える可能性もあります。1点のみ出土した青磁花生は、当時としても骨董価値の高い中国元代の優品なので、この郭に住んだ(あるいは利用した)人は、ある程度裕福だったものと思われます。しかし掘立柱建物の柱配列は不規則で、建物規模もはっきりしないことから、持ち主の身分もよく分からないのが現状です。
第3次調査区(北端郭)を西側から撮影。画面左側が丘陵斜面になる。台地整形区画内にピット群があり(画面右)、何らかの建物施設があったことが窺われる。整形区画を取り巻くように地下式坑が点在。
 この城を築いた人はだれなのでしょうか。残念ながらよく分かりませんが、文明年間(1469〜1487)に「市原備前守真常」という人物が居城したと伝えられています(註3)。出土遺物の年代と合致するので、何らかの歴史事実に裏打ちされた可能性を考慮してもよいかもしれません。さらに城主が「市原」地名を苗字にしている点から、この言い伝えには、かつての支配者が生え抜きの地主であることを伝える、あるいは強調する意図があったものと思います。城の立地からも、城主と農業の関わり深さが推測できるので、一帯の小規模城郭群は市原荘内に権利を代々受け継いできた国人領主の城なのかもしれません。

(註1)櫻井敦史1997『白船城跡II』財団法人市原市文化財センター調査報告書 第35集
(註2)梁瀬裕一2003「東国の戦国城館成立期におけるひとつの実像 ―千葉市生実城跡の調査成果から―」『千葉城郭研究』第7号 千葉城郭研究会編 所収
(註3)千葉県市原郡教育会1916『千葉県市原郡誌』