遺跡は市原市の北東部、村田川の支流によって開析された標高70m程の台地上に立地します。遺跡の西側は標高差40mを測る急峻な谷が存在し、隣接する台地とは隔絶された印象を受けます。本遺跡は、これまでに平成4年(9,000u)、平成12年(450u)の2度の本調査が行われ、縄文時代中期、平安時代初期・中期頃を中心とした集落跡が検出されています。
このうち、縄文時代の遺構は竪穴住居跡4軒、小竪穴2基、陥し穴・土坑33基が確認されています。平成4年の調査は未整理のため詳細はわかりませんが、平成12年の調査では、住居内の炉に埋め込まれた深鉢や、連弧文と呼ばれる半円形の文様が施された土器などが出土しています。住居跡出土の土器から、遺跡は縄文時代中期、加曽利EII式期の限られた期間の小集落といえるでしょう。調査事例の限られる市北東部の希少な調査成果のひとつとなっています。 |