いちはら学
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I’Museum38①東京湾の埋め立て②住宅団地の造成戦後、いちはらの海辺はどのように変わったでしょうか。★埋め立てにより海岸の様子がどう変わったのか、P44の古地図を見ながら考えよう。★高度経済成長期、日本では生活様式が大きく変わった。当時の家電や流行したものについて調べよう。戦後、千葉県は経済復興を目指し、日本最大規模の京葉工業地域の建設を計画しました。1957(昭和32)年9月から市原・五井地区の埋め立て①が始まり、1962(昭和37)年には五井・姉崎地区の埋め立ても始まりました。工業地域を縦じゅう貫かんする道路の整備も緊きん急きゅうの課題として進められ、1959(昭和34)年には旭あさひ硝がらす子市原工場が、1961(昭和36)年からは古ふる河かわ電気工業、昭和電工、富士電機製造などが操業を開始しました。また、1963(昭和38)年には京葉臨海鉄道も営業を始め、いちはらの臨海部は日本を代表する工業地域に生まれ変わりました②。臨海部の工業地域に多くの工場が建設されると、従業員の住宅が必要になりました。当時の市原町大厩の通つう称しょう「辰巳ヶ原」の山林は、1959(昭和34)~1964(昭和39)年にかけて造成され、いちはら初の大規模団地となる辰巳台になりました。1968(昭和43)年には千種・姉崎西海岸進出企き業ぎょうの社宅団地として有秋台団地が造成され、以後、若宮、青葉台などの造成が続きました③。住宅地の整備に伴ともない、道路や上水道、教育施設などの整備も急速に進み、市原郡の人口は9万8026人(昭和35年)から20万393人(昭和51年)にまで増えました。(13)経済復興を目指して -昭和時代②-日本は敗戦後、GHQの指令・勧かん告こくに基もとづき、民主化政策と戦後の経済復興が進められました。1952(昭和27)年に独立を回復し、1955(昭和30)年から約20年間にわたり、高度経済成長を達成します。?

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