いちはら学
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 戦時中の記憶I’Museum36①戦時中の生活戦時中、いちはらではどのような出来事があったでしょうか。★親しん戚せきや地域の人から、戦争体験の話を聞いてみよう。★図書館やウェブサイトを使用し、戦時中のいちはらの様子を調べよう。政府は生活必ひつ需じゅ品への統制を強め、ぜいたく品を禁止し、米を配給制①に、次いで衣料も切きっ符ぷ制②にしました。太平洋戦争の開戦後、国民は兵力・労働力として動員されます③④。大学・高等学校・専門学校の一部の学生を徴ちょう兵へいする一方、残った学生や女性などを軍ぐん需じゅ工場で働かせました。1944(昭和19)年以降、本土空くう襲しゅうが始まると、児童たちが親元を離れて地方に避ひ難なんする学童疎そ開かいも始まりました。当時の市原郡は、東京本ほん所じょ区(墨すみ田だ区)から1200人以上の児童を受け入れましたが、戦局の悪化により、岩手県に再疎開したという記録が残っています。養老村国民学校長 立野乾吉「学校の日々の教育の主力は勉強というよりは食しょく糧りょう増産軍需品生産の応おう援えんという形態であった。毎日の学習は二時間か三時間で、あとは縄ないをしたり、麦、さつまいもを作ったり、田の耕作が主であった。一日のうち数回空襲警報発令で逃にげたりかくれたり、耕作したり、防空壕ごうに入ったり、作業も勉強も落ち着いてできなかった。」(養老小学校創立百年記念事業実行委員会 1975年『創立百年』P79~82要約)養老村 篠原新増「昭和20年5月8日午前11時頃ごろ、アメリカ戦せん闘とう機P51編隊が川在分校⑤真上を南から北へ通過したと見るや、中の一機が急に引き返し校舎を機き銃じゅう掃そう射しゃした。教室の中に血は飛び散り、肉は散乱の凄せい惨さんさに思わず目を覆おおう有様。父兄と協力して応急の手当其その他の処置を講じた。」(養老小学校創立百年記念事業実行委員会 1975年『創立百年』P165)(12)戦争の記き憶おく -昭和時代①-日本は、勢力拡大をねらって中国進出を進め、1937(昭和12)年、ついに中国との全面戦争へと発展しました。第二次世界大戦が始まると、アメリカやイギリスとの対立が決定的となり、1941(昭和16)年、太平洋戦争が勃ぼっ発ぱつします。?

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