いちはら学
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? I’Museum34①学校教育の始まり②戸田小学校の体育教育③小湊鐵道の開通子どもたちの生活にどのような変化があったでしょうか。★自分の住んでいる地域や、自分の通った小学校がいつつくられたものか、調べよう。★戸田体育について、知っていることを挙げよう。1872(明治5)年8月、明治政府は学制を発布し、市原郡内には1873(明治6)年に32校、1874(明治7)年に19校、1875・76(明治8・9)年にそれぞれ9校、1877 (明治10) 年には4校の公立学校①が設立されました。当初は就学率が低く、授業料の負担、教育内容が地域の実情に合わないなどの理由から反発もありましたが、さまざまなことを教えてくれる教師に感謝する人もいました。市原郡にいた教員の一人に、日本語点字の基き礎そを築いた石いし川かわ倉くら次じ②がいます。彼は鶴舞藩はん校こう克こく明めい館で修業して教員を務めた後、東京訓盲もう唖あ院の教師になり、日本語点字を考案しました。1923(大正12)年9月1日、関東大震しん災さいが起こりました。この影響で疲ひ弊へいしていた戸田村を再建するため、村長の伊い藤とう貞てい三ぞうは、体操を通じて強きょう靭じんな体力と強固な意志を身につける「戸田体育③」と呼ばれる特色ある学校教育を戸田尋じん常じょう高等小学校で展開しました。1930(昭しょう和わ5)年に始まった体育公開研究会は、現在も続けられています。小湊鐵道は、安房小湊の誕生寺への参さん詣けい客を見込み、五井―小湊間を結ぶ房総横断鉄道として計画されました。1925(大正14)年、五井―里見間、翌年に里見―月崎間が開通し、旅りょ客かく・貨物輸送を担うとともに、山やま砂じゃ利りの輸送や関東大震災からの復興にも貢献しました。1928(昭和3)年には月崎―上総中野間が開通し、1934(昭和9)年に国鉄木原線(現いすみ鉄道)が小湊鐵道に接続しました④。小湊への延えん伸しんは取りやめとなりましたが、戦後も通勤・通学・観光など人々の足として地域を支え、現在に至ります。(11)近代のまちづくり②  -明治②・大正時代-明治政府は、欧おう米べい列強に対たい抗こうできる近代日本建設のため、教育制度の改革、大日本帝てい国こく憲法の制定、国会開設などを進めました。一方で、軍事力の増強にも努め、外国と戦争をするようになります。

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