違ちがいを探そう。I’Museum32①幕末のいちはら②いちはらの地形と水の利用③鉄道の登場明治時代を迎え、人々の生活にどのような変化があったでしょうか。★先人の努力による用水確保が進み、養老川流域の人々の暮らしはどのように変化したか、図書館などで調べよう。★ウェブサイトなどで、当時の木更津線の駅周辺の様子を調べ、現在との1868(慶けい応おう4)年、新政府と旧幕府勢力による戊ぼ辰しん戦争が起こります。房総では、新政府軍と戦った義軍「撤さっ兵ぺい隊たい①」が五井・養老川出津の渡し場・村上・姉崎付近で最後の決戦を繰り広げました。同年、沼ぬま津づ藩水野氏が菊間へ、浜はま松まつ藩井いの上うえ氏が鶴舞へ移い封ほうされ、菊間藩と鶴舞藩が成立し②、幕末からあった鶴牧藩とともに1871(明治4)年の廃藩置県を迎えました。水野氏、井上氏の在ざい藩はんはわずかな間でしたが、武士団の居住は、以後のいちはらの経済・教育・文化面に大きな影響を与えました。1873(明治6)年には千葉県が誕生し、いちはらは千葉県市原郡となりました。養老川上流から中流域は、川かわ面もと耕地に著いちじるしい高低差が生まれ、耕地への水の利用が困難でした。一方、下流では広い農地に対して水量が少ないため、水を引くには工く夫ふうが必要でした。1879(明治12)年、藤ふじ原わら治じ郎ろ吉きちが、川面から20m以上も高い耕地に水をくみあげる藤原式揚よう水すい車③を池和田に設置しました。また、西広では、1885(明治18)年に渡わた辺なべ善ぜん右え衛門もんが木造の板いた羽ば目め堰ぜき④を完成させました。1908(明治41)年、八幡町・五井町・東海村・千種村・姉崎町を含む市原・君きみ津つ郡の町村長たちが、蘇そ我がから市原・君津郡を経て館たて山やまに至る鉄道敷ふ設せつの請せい願がん書を逓てい信しん大臣へ提出しました。1912(明治45)年3月28日、蘇我―姉ヶ崎間が木更津線⑤として開通し、同年(大たい正しょう元年)8月21日には姉ヶ崎―木更津間も開通しました。鉄道は観光客を乗せ、海辺は海水浴や潮しお干ひ狩がりを楽しむ人々で賑わいました。(10)近代のまちづくり① -明治時代①-ペリー来航を機に、日本は開国へと転換し、明治維い新しんによって近代国家への道を歩み始めます。鉄道の整備も進められ、人々の生活も大きく変わりました。?
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