いちはら学
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?撲仰九く②は当時のいちはらを作品に描いています。藤とう吏り仙せん、国学に通じた立たち野の良よし道みちなどを輩はい出しゅつしています。ずもうしんこうI’Museum30①文人の往来②江戸相③信文化江戸時代、いちはらにはどんな文化があったでしょうか。★いちはらフィールドマップやウェブサイトを使用し、江戸時代、文人が訪れた場所を調べよう。★いちはらフィールドマップやウェブサイトを使用し、現在も残る信仰文化の跡を調べよう。いちはらは、江戸からの距きょ離りが比較的近いことから、多くの文人が往来しました。「水み戸と黄こう門もん」で知られる徳とく川がわ光みつ圀くにや、俳人の小こ林ばやし一いっ茶さは旅の途と中ちゅうで姉崎妙経寺を訪れました。また、浮うき世よ絵え師の葛かつ飾しか北ほく斎さい①や、『東とう海かい道どう中ちゅう膝ひざ栗くり毛げ』で有名な十じっ返ぺん舎しゃ一いっこのような文人の往来を背景に、いちはらからも俳人の飯いい島じま吐と月げつ、伊い江戸時代、庶しょ民みんの娯ご楽らくの代表は歌か舞ぶ伎きと相すもう撲でした。寺社等への寄進を目的とした勧かん進じん相撲が各地で盛んに行われました。いちはら出身の力士も現れ、なかでも上高根出身の小こ柳やなぎ常つね吉きち③は、1852(嘉か永えい5)年に当時の最高位である大関に昇しょう進しんしました。ペリー来航時には稽けい古こを披ひ露ろうし、米俵を持ち上げて見せたという記録が残っています。全盛期5年間の勝率は8割を超こえ、浮世絵にもたびたび登場する人気力士でした。民衆は、家や村の安全・発展を願い、精神的なよりどころを求めました。そこから現在にもつながる、出で羽わ三さん山ざん信仰や富士信仰などが広がっていきました。出羽三山信仰は、山形県の出羽三山(羽は黒ぐろ山さん・月がっ山さん・湯ゆ殿どの山さん)を霊れい場じょうとして崇あがめるもので、三山登拝を目的とした奥おう州しゅう参り④が流行し、いちはらでも盛んに行われました。また、富士信仰は、現世と来世の安楽を願って富士登山を行うもので、各地で富士講が結成されました。富士山を模して築いた富ふ士じ塚づか⑤も多くつくられ、疑似的に登山することで富士山に登るのと同じ御ご利り益やくが得られるとされています。(9)江戸時代の文化 -江戸時代③-江戸時代、裕ゆう福ふくな百姓や町人、武家の中から、学問や思想、芸術などの幅広い分野で文化の担い手が現れました。後期には都市の繁栄、町人や文人たちの全国的な交流、出版・教育の普及などにより、江戸の文化が全国各地に伝えられました。

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