みなとI’Museum28①五大力船②いちはらの湊③養老川の舟運燃料を支える場になりました。江戸時代の流通のメインは水運です。東京湾では、五大力船①という長さ約10~20m、積せき載さい量15t前後の中型帆はん船せんが昭和初期まで活躍しました。細長い船体、平たい船底、両りょう舷げん側に取り付けられたダイと呼ばれる竿さお走りがあり、海船でありながら、川での航行も可能となっています。海上では舵かじを下ろして帆はん走そうし、河川では帆ほ柱ばしらを倒たおして舵を上げ、竿をさして航行しました。これにより、江戸の川筋や上総の遠浅の海を航行できるようになっていました。いちはらには、八幡・五井・姉崎・青柳・今津・椎津に主要な湊②がありました。内陸部から川かわ舟ぶねなどで運ばれてきた年貢米や薪しん炭たん、材木などは各湊で五大力船に積み替えられ、江戸や神奈川に運ばれました。江戸からの帰りの船には、衣料・雑貨・肥料・砂糖・醤しょう油ゆ・菓か子し・酒などが積まれました。物流の大動脈であった五大力船による舟しゅう運うんは、江戸を支えるとともに、いちはらの人々の暮らしに潤うるおいをもたらしました。養老川では、川舟やいかだを利用して一度に多くの物資が運ばれました。南部の上流域からは、村々で生産された年貢米や薪炭などの特産物が五井へ運ばれ③、北部の下流域からは江戸などから運ばれてきた肥料や海産物、酒、塩、日用雑貨などが運ばれました④。川舟を持つ者は船ふな持もちと呼ばれ、上組と下組に分かれ、9~15の村で組合をつくり、ルールを決めて、利権の確保を図はかりました。いちはらと江戸の物流はどのように行われていたでしょうか。★いちはらフィールドマップやウェブサイトを使用し、江戸時代の湊や水運に関係する場所を調べよう。(8)五ご大だい力りき船せんの往来 -江戸時代②-江戸時代になると、陸上・海上交通網もうが整備され、房総は江戸の食と?
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