?拠ほんきょI’Museum26①いちはらを本②村の暮らし③海のめぐみと農業とする藩江戸時代、いちはらではどのような生活が行われていたでしょうか。1)旗本将軍直属の家臣で、将軍に謁えっ見けんできることを許される、1万石ごく未満の武士。2)譜代大名古くから徳川家に仕えた大名。★図①を参考に、自分の住んでいる地域の藩の名前を調べよう。★江戸時代、なぜ米の収穫が重要になったのか、教科書や図書館、ウェブサイトを利用して調べよう。江戸時代、いちはらは旗はた本もと1)や譜ふ代だい大名2)によって大部分が治められ、約4割は1つの村を複数の領主が分割支配する相あい給きゅう村落となりました。幕末までにいちはらに領地を持った藩①は27あり、そのうち、姉崎・潤井戸・五井・高滝・鶴牧・八幡の各藩はいちはらを本拠としました。その一つ、鶴牧藩②は、1827(文ぶん政せい10)年に安房国北条藩はん主しゅだった水みず野の忠ただ韶てるが城主格となり、領地替がえで成立し、椎津村に陣じん屋やを建てました。いちはらを本拠にした幕末唯ゆい一いつの藩で、1871(明めい治じ4)年の廃はい藩はん置ち県けんまで3代③続きました。いちはらには、農村、山村、漁村とさまざまな村があり、1702(元げん禄ろく15)年時点で182ありました。百姓は年貢や御ご用よう金きんの支し払はらいなどで領主の財政を支えるとともに、江戸に住む領主との行き来や冠かん婚こん葬そう祭さいのやりとりを通じて結び付きを強め、領主の支配を支えました。いちはらの領主の多くは江戸に住んでいたため、年貢の徴ちょう収しゅうや人口調査などは村に委ねられていました。村役人は、地域のトラブルの調停など指導的立場を担になって、村を運営④する力を高めていきました。こうした自治の経験は、江戸時代以後の地域社会にも引き継がれていきます。江戸時代、少しでも多くの収しゅう穫かくを上げるために、肥料が重視されました。いちはらで特徴的に用いられた肥料のキサゴ⑤は、東京湾東岸の干潟に大量に生息する巻貝で、沿岸の村々が発行するキサゴ札を持つことで採取することができました。キサゴをめぐって村々の間で争いが起こるほど重宝され、いちはらの人々は資源管理をしながら海のめぐみを享きょう受じゅしました。(7)村の成立と暮らし -江戸時代①-織お田だ信のぶ長なが・豊とよ臣とみ秀ひで吉よし・徳とく川がわ家いえ康やすにより戦国の世の統一が進み、1603(慶けい長ちょう8)年、江戸幕府が成立します。大名の領地と支配機構を藩はんと呼び、その重要な基き盤ばんとして、百ひゃく姓しょうの家いえ屋や敷しき・田畑の耕地などから成る「村」が成立しました。村は村人の生産・生活の場であり、領主に年ねん貢ぐを納める基本単位となりました。
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