いちはら学
26/123

?頼朝は者徳えど戸湾岸みなもとのよりともきょうとくわんがんしゃI’Museum24①源の進軍②房総武士団の覇③享の乱④江上総氏の中世都市武士政権が成立した時代、いちはらにはどのような武士がいたでしょうか。1)鎌倉公方室町幕府の地方機関の長官。2)関東管領鎌倉公方の補佐役だったが、次第に鎌倉公方をしのぐ勢力を持つようになった。★源頼朝がどのように鎌倉へ進軍したか、調べよう。★里見氏がなぜいちはらに多くの城郭を築いたのか、考えよう。平氏の専制政治に不満が高まり、1180(治じ承しょう4)年、源頼朝が相さがみの模国くに石いし橋ばし山やまで挙兵します。しかし、平氏方の軍勢に敗れ、海を渡って安あわの房国くにに上陸し、上総国の上かずさ総広ひろ常つね、下しもうさの総国くにの千ち葉ば常つね胤たねらの協力を得て、勢力を拡大し、源氏ゆかりの鎌倉に進軍①しました。そして、頼朝のもとに東国の武士団が結集し、鎌倉幕府が確立しました。鎌倉幕府は、上総氏、千葉氏、三み浦うら氏のような国府の役人を中ちゅう核かくとし、国府の行政を介かいして東国の支配を進めました。上総氏②は、房総各地を開発していった房総平氏の惣そう領りょうで、上総、下総に強大な勢力を誇りました。国府の現地役人の頂点である上総権ごんの介すけ職しきを世せ襲しゅうしていたため、いちはらは重要な拠点だったと考えられます。上総広常は源頼朝の進軍に貢こう献けんしましたが、その大きな勢力を警けい戒かいした源頼朝に殺されました。1454(享徳3)年、鎌倉公く方ぼう1)足あし利かが氏と関東管かん領れい2)上うえ杉すぎ氏との対立から享徳の乱が起こりました。その結果、下総国の千葉氏が衰おとろえ、上総国に武たけ田だ氏、安房国に里さと見み氏が侵しん入にゅうし、戦国大だい名みょうとして成長していきます。里見氏は領国を広げ、後ご北ほう条じょう氏と房総の覇は権けんを争い、いちはらに多くの城じょう郭かく③が築かれました。中世になると、荘しょう園えんや寺社の所領経営のために伊い勢せ湾と江戸湾を結ぶ海路の利用が増え、14~15世紀には港こう湾わん都市が急成長しました。いちはらでも、市原八はち幡まん宮ぐう(飯香岡八幡宮の前身社)④や姉あね埼さき神社の門前町が賑にぎわいました。(6)武士の台頭 -鎌かま倉くら・室むろ町まち・戦国時代-10世紀初め、律令体制が行きづまり、国は財政を維い持じすることが困難になります。各地で紛ふん争そうが多発し、それを鎮ちん圧あつするために朝廷から中・下級貴族が派は遣けんされ、彼らの中から現地に残った者たちがやがて武士として勢力を広げていきます。有力武士団の源氏と平へい氏しが台頭し、12世紀には平たいらの清きよ盛もりが権力をにぎりました。

元のページ  ../index.html#26

このブックを見る