? 級さらしなI’Museum22①上総国の中心地②国分寺の建立③『更日記』といちはら古代のいちはらはどんな様子だったでしょうか。1)大宝律令奈良時代・平安時代の法律。中国の唐とうの法律を手本とした。日本では天皇を中心とする国家体制ができあがった。2)国分寺建立の詔当時、飢き饉きんや疫えき病びょうなど社会的不安が高まり、聖武天皇は仏教によって国家の安定を図ろうと考え、諸国に国分寺・国分尼寺をつくらせた。★上総国府推定地のそれぞれの根こん拠きょを調べよう。★『更級日記』を読み、どのようなルートで京へ帰っていったのか、考えよう。諸国には、役所である国こく府ふが置かれ、中央から貴族が国こく司しとして赴ふ任にんしました。また、国は複数の郡に分けられ、地方の豪族が郡ぐん司じに任命されました。上総国では、市原郡の市原、郡こおり本もと、村上のいずれかの地区に上総国府が置かれていたのではないかと考えられています②。また、市原城跡あと辻つじ地区からは古代の掘ほっ立たて柱ばしら建たて物もの跡あと③が見つかり、国府と深く関わる施設ではないかと考えられています。741(天てん平ぴょう13)年、聖しょう武む天皇が国分寺建立の詔みことのり2)を出しましたが、建立事業がなかなか進まなかったことから、6年後に督とく促そくの詔を発しました。市原郡に建立された国分寺は、全国でも規模が大きく、国こく分ぶん尼に寺じ④は最大のものとなっています。国分寺跡からは伽が藍らんの下層から簡素な建物群が見つかっており、当初は簡単な寺を建てることで朝廷の要望に応えようとしたものの、督促の詔を受けて、本格的な伽藍造営に踏ふみ出したと考えられます。10~11世紀、かな文字を使用して多くの文学作品が生まれました。その一つが菅すが原わらの孝たか標すえの女むすめの⑤『更級日記』で、上総国司である父の任期が終わり、いちはらから京へと帰る場面から始まります。10歳さいのときに家族とともに上総国府に来た作者は、都で流行の『源げん氏じ物語』に憧あこがれ、早く京に帰って本を読みたいと薬やく師し仏ぼとけに祈る一方、遊び慣れた土地を去る寂さびしさを語っています。この作品から当時のいちはらの様子をうかがい知ることができます。(5)上かずさの総国くにの成立と国こく分ぶん寺じの建こん立りゅう -飛あすか鳥・奈良・平へい安あん時代-701(大たい宝ほう元)年、大宝律りつ令りょう1)が完成し、政治の仕組みがほぼ整います。朝ちょう廷ていは、列島を60余りの国に分け、千葉県域には上かず総さ①・下しも総うさ・安あ房わの3か国が置かれ、東海道に属しました。
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