?ひ葬者い威そうしゃけんI’Museum20①市原の前方後円墳②姉崎古墳群③被の権を示した品々古墳から、当時のいちはらについてどんなことが分かるでしょうか。★いちはらで見つかっている古墳時代の遺跡を調べよう。★「王賜」銘鉄剣以外にも、古墳からはどのような副葬品が出土しただろうか。I’Museumのサイトで調べよう。古墳時代には、河か川せん流域ごとに拠点的な地域が現れ、中心地域などに大規模古墳を核かくとした古墳群①がつくられました。市原では、養老川下流の姉あね崎さき古墳群と村田川下流の菊きく間ま古墳群に大型の前方後円墳が集中しています。流域を代表する有力者が葬ほうむられ、古墳時代後期(6世紀)には、それぞれの地域に上かみつ海うな上かみの国くにの造みやつこ、菊くく麻まの国くにの造みやつこと呼ばれる豪ごう族ぞくがいたことが分かっています。市内には1500基以上の古墳が見つかっています。姉崎古墳群は、南関東有数の古墳群です。このエリアで最大規模の姉崎山さん王のう山やま古墳などには上海上国造に関係する人物が葬られたと推定されます。古墳の一つ、古墳時代中期を代表する姉崎二ふた子ご塚づか古墳は大型前方後円墳で、沖ちゅう積せき平野の微び高こう地ち上に立地し、全長110mの墳丘には、2段の円えん筒とう埴はに輪わ列がめぐらされています。埋葬施設からはさまざまな副ふく葬そう品が出土し、このうち、直ちょっ弧こ文もん②の彫ほられた石いし枕まくらは、茨城県から千葉県を中心に発掘された石枕の中でも特に精美な資料といえます。古墳の副葬品には、一人が身に着けられないほどの種類と量が見られる場合があり、被葬者が使っていた品だけでなく権威を表す意味で多く副葬されたと考えられています。本来は姿を映すための鏡③も、まじないの力を期待して置かれたようです。勾まが玉たまなどのさまざまなアクセサリー④のほか、死者のための石枕、ウマを飾かざった馬具なども副葬されました。また、有力者の古墳の表面には埴輪が並べられました。山倉1号墳の埴輪⑤は、約80㎞離はなれた埼玉県鴻こうの巣す市生おい出ね塚づか遺跡の窯かまで焼かれ、はるばる運ばれたことが明らかになっています。遠方の有力者との関係が背景にあったと考えられます。(4)いちはらの古墳と「王」 -古墳時代-3世紀中ごろから、西日本を中心に、前方後円墳をはじめとする大型古墳が造られるようになります。大やまと和地方(現在の奈良県)を中心とする大和政権が登場し、4世紀中ごろまでには東日本も大和政権に組み込まれました。
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