I’Museum18①弥生土器の登場②人々の往来が活発化③古墳のさきがけ弥生時代になると、人々の生活はどのように変わっていったでしょうか。1)再葬墓弥生時代の前半、埋葬後の骨や歯の一部を土器に納める習慣があった。人面付土器は再葬墓と関係していると考えられているが、三嶋台遺跡の人面付土器は再葬墓の流行した時期より新しい特徴を示すため、異なる意味があった可能性もある。★いちはらで見つかっている弥生時代の遺跡を調べよう。★弥生時代の遺跡から何が見つかっているか、I’Museumで確認しよう。人々は、600~800度の野焼きで焼き上げられた素焼きの弥生土器②を使用するようになります。貯蔵用の壺つぼや煮炊き用の甕かめなどが見つかっており、加えて、三み嶋しま台だい遺跡では人面付土器③も発見されています。再さい葬そう墓ぼ1)と関係するのか、研究が進められています。コメは貯蔵できることから、人々に安定した生活をもたらしましたが、一方で、天候不順による不作、農地などをめぐる近隣集団との対立にも向き合わなければならなくなりました。縄文時代以前から交こう易えき(物と物の交換)は行われてきましたが、弥生時代の終わりごろ(2世紀末)になると人の移動がより活発になります。市原市内の遺跡からも、北陸地方、東海地方の特徴をもったデザインの土器や竪たて穴あな建物などが発見④されており、この時代に起きた社会変動の影響によって遠方から移住してきた人の存在を示しています。また、天てん神じん台だい遺跡から出土した土器には船が描かれています⑤。土器に描かれた船は、丸まる木き舟ぶねに舷げん側そく板ばんを追加した準じゅん構こう造ぞう船せんがモデルになっています。同様の土器絵画は東海地方でも発見されているため、弥生時代の終わりごろになって、東海地方から伝わった文化の一つと考えられます。市原市周辺には神ごう門ど古墳群⑥など古墳のさきがけといえる墳ふん墓ぼがあります。神門古墳群の形は、卑ひ弥み呼このいた邪や馬ま台たい国こくの中心とも推定される纒まき向むく遺跡(奈良県桜さくら井い市)周辺の初期の古墳に似ていることから「纒向型前ぜん方ぽう後こう円えん墳ふん」と位置付ける説があります。また、高たか部べ古墳群(木き更さら津づ市)などの、墳ふん丘きゅうが前後とも四角い前ぜん方ぽう後こう方ほう墳ふんは滋賀県以東に多くあり、房総にも広がっています。どちらも弥生時代⑦から古墳時代へ移り変わる時期に築造され始めました。(3)水田稲いな作さくと権力者の登場 -弥やよい生時代-弥生時代には、水田稲作と金属器が広がりました。人々は農作業を通じて結束し、あちこちでムラができあがります。そして、ムラの中から農作業を指揮し、近きん隣りん集団や内部との利害を調整するリーダーが登場しました。また、争いに備えるため、深い堀ほりで囲まれた環かん濠ごう集落①が発達しました。?
元のページ ../index.html#20