いちはら学
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西さい広ひろ貝塚からは、3200点にも及およぶさまざまな貝製装身具1)が出土しています。南房総の海岸に打ち上がった貝かい殻がらを、装身具に加工してムラの特産品③としたと考えられています。I’Museum16①縄文土器の登場②貝塚③貝のアクセサリー④縄文人とイノシシ貝塚から、どんなことが分かるでしょうか。1)貝製装身具貝殻に穴をあけ、ペンダントやネックレスなどとして身につけていた。2)貝輪貝殻に穴をあけて加工した腕うで輪わ。女性専用⑤のブレスレットと考えられている。★いちはらの縄文人は、どのような食生活を送っていたか、調べよう。★千葉県で出土している縄文土器と文様の特徴を調べよう。1万6000年ほど前から、人々は土器を作るようになりました。このころ作られたものは、表面に縄目の文様をつけられることが多いので縄文土器①と呼ばれ、この時代を縄文時代といいます。土器を用いた煮に炊たきと貯蔵によって、消化しづらい植物などが食材に加わりました。食物対象の拡大は食生活の安定をもたらし、定住、人口の増加、寿じゅ命みょう延長に大きな影えい響きょうを与あたえたのです。河口には広大な干潟が発達し、そこから得られる海の幸は定住生活を支え、集落には食べ物の残りかすなどを捨てた貝塚ができました。縄文時代の貝塚は全国に2443か所あり、千葉県はこのうちの約3割が分布する全国一の貝塚密集地帯です。市内の貝塚②は縄文後期のものが多く、湾わん奥おう部に比べて干潟の形成が遅おくれたのではないかと考えられています。また、縄文後期にはベンケイガイ製④の貝輪2)が全国的に普ふ及きゅうしました。市内の貝塚からは、貝輪のほか、未完成品や破損品、砥と石いしなども出土し、貝輪づくりが盛んに行われていたことを示しています。西広貝塚の竪穴建物跡あとからはイノシシの頭とう蓋がい骨こつが、菊きく間ま手て永なが貝塚からは埋まい葬そうされたイノシシの幼よう獣じゅうが出土しています。狩猟の成功などを祈いのり、埋まい納のう・埋葬されたものと考えられています。イノシシを模した土製品⑥も作られており、生命力、繁はん栄えい、再生の象しょう徴ちょうとして、イノシシが縄文人にとって特別な存在だったことがうかがえます。(2)貝かい塚づかと縄文の人々 -縄文時代-氷期が終わり温暖な気候になると、広大な海と落葉広葉樹林が広がりました。人々は、山海の幸さちを幅はば広く利用することで、定住生活を実現していきます。?

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