菅原孝標(すがわらのたかすえ 父)
私の父です。どんな人かって? まじめで優しくって、大好きです。あまり切れるタイプではないと思われがちなのは、私の『更級日記』も原因のようで‥。父にはちょっと悪いことをしましたね。
 たしかに父は菅家のシンボルである学者職の長官には就けずじまいでした。凡庸だったと言えばそれまでなんですが‥。ただ、娘としてちょっとだけ弁護させていただきますと、若くして祖父(資忠)を亡くしたことが大きな原因だったと思うんです。これから仕官する大切な時期だったわけですからね。
 父は私たちを本当に可愛がってくれましたので、単身赴任なんて考えられなかったのでしょう。寛仁元年(1017)、45歳でやっと国司になると、任地の上総国に私たちも連れていったほどです。その後は都に近い国の長官になることをずっと願っておりました。もし叶えば、私も連れて行くつもりだったんです。しかし60歳まで待ちに待って、ようやく常陸介ですよ。すごく落胆してました。そりゃあ、常陸国は最高ランクの「大国」ですけど、坂東へ下るには、ちょっと歳がねえ‥。それに長元5年(1032)って言やあ、「平忠常の乱」終息の翌年でしょう?そういう社会不安もありましたし、 父の心境は察して余りあります。「生きて都には戻れない」って覚悟してました。「そんな所に娘を連れて行くわけにいかない」などと言って、一人で赴任しましたが、今思えば、本当は私についてきてもらいたかったんでしょうかね‥。出発の時なんか、私を見て泣くんですよ。さすがにもう会えないかと思えてきて‥。私は太秦の広隆寺にお籠もりし、「父が無事に帰ってきますように」とお祈り申し上げました。きっと仏様も不憫に思われて、お聞き届け下さったのでしょうね。父とは4年後に再会することができました。このときはどんなに嬉しかったことか!
菅原孝標
 孝標は若年期、父の頓死に遭いますが、それなりの活躍はしているようです。ただし国司としては、わずかに遠国の長官を2度務めたに止まりました。上総介(かずさのすけ)と、常陸介(ひたちのすけ)です。これらの国は皇室が名目上の国守を務める「親王任国」なので、次官である「介」が事実上の長官になります。ちなみに上総国は千葉県の中央部、常陸国は茨城県にあたります。