菅原孝標の女、市原に現る!
 平安時代後期、藤原道長が権勢をふるっていたころ、ある少女が都から市原にやってきました。人呼んで「菅原孝標の女」(すがわらのたかすえのむすめ)。
 名作『更級日記』の作者と言えば、ご存じの方も多いと思います。
 これは、彼女といっしょに平安いちはらの史跡を旅するコーナーです。まず始めに、彼女のプロフィールを紹介したいと思います。
はじめまして。菅原孝標の女です。
『更級日記』の作者
菅原孝標の女(すがわらのたかすえのむすめ)
私の呼び名は「菅原孝標の娘」って意味です。そのまんまですね。
 私の時代、女性が本名で呼ばれることはほとんどなく、父や夫の名や官職名などで呼ばれてました。
 ですから私も通称でカンベンしてネ。菅原孝標の女
『更級日記』
 寛仁4年(1020)、父の上総介の任期が終わり、市原を旅だった13歳の少女時代から、夫を失ない孤独になるまで40年間を書き綴った回顧記。作者は物語の世界に強いあこがれを抱き、『源氏物語』の浮舟に自己投影する夢追い人であるが、親しかった継母との別れ、愛する乳母や姉の死、家の火事など現実は厳しい。夢の世界を現実のものとするには、父の出世が望まれたが、その父も常陸国司を務めた後に引退、母も出家してしまう。作者には、もう夢ばかり追い続けて暮らすことは許されない。一家の主婦としての現実に直面したのである。しぶしぶ出仕した宮仕えにもそれなりの期待はあったが、親に辞めさせられ、夫を迎える。不本意な現実を嘆いてみたところで人生が変わるわけでもなく、やがて作者は夫の出世と子の成長を思い、一家の幸福を願って物詣でに精を出す。作者はここにきてようやく、物語的世界とはちがう現実的な夢を追うことになったのである。しかしやっとのことで信濃守に補任された夫が急死し、作者はどん底に突き落とされる。作者が長年見てきた現世利益の夢はことごとく潰え、深い絶望が残るのみである。作者は天喜3年(1055)、阿弥陀来迎の夢を見ている。夫の死後、孤独になった作者は、唯一この夢を頼みに余生を過ごす。極楽往生、つまり来世に夢をつないだのである。
 作品の終盤、孤独な作者を訪ねた甥に歌を送る場面がある。
 
月もいででやみに暮れたる姨捨に
    何とて今宵たづね来つるらむ

この姨捨山は夫が晩年に国司を務めた信濃国の更級郡にあり、作品名の由来となった。
 全体に『和泉式部日記』や『蜻蛉日記』のような盛り上がりはないが、そのぶん静かに流れるような文体は、受領階層の娘がたどる人生の現実を切なく表現しており、諦観の調べが心地よい。要所要所に見える巧みな月の描写が印象的である。
菅原孝標の女Profile
 寛弘5年(1008)生まれ、本名は不明。『更級日記』の作者として有名。また、『夜半の寝覚』(よわのねざめ) 『浜松中納言物語』などの作者に擬されている。大学頭や文章博士を代々務める学問の家柄で、兄定義もこれらの職に任命されている。また、母方の叔母に『蜻蛉日記』を記した藤原道綱母がおり、父が上総下向に連れそった継母は、後に「上総大輔」と呼ばれる歌人であった。このような環境は、孝標の女の物語への傾倒に大きな影響を与えたものと考えられる。
姨捨山
姨捨山(長野県千曲市 冠着山)
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