下総国境〜八幡・五所 4

五所 2006,07,29
武将像  戦国時代、下総国小弓城に入った足利義明(あしかがよしあき)は「小弓公方」(おゆみくぼう)と称し、上総・安房の大名里見・武田氏などを傘下に収めながら、一大勢力を築いたことはよく知られています。
 さて、今回訪れる地域には、義明が小弓に入る前に仮御所を構えていたので「五所」と呼ばれるようになった、という伝承があります。近世の軍記物『里見九代記』や、飯香岡八幡宮の縁起『飯香岡八幡宮由緒本起』には、「義明が八幡に御所を築いた」と記載されています。はたして八幡御所は八幡にあったのか、それとも五所か、あるいは伝説の産物で実在しなかったのか、よくわかっていません。
八幡御所は存在自体がナゾなんですね。でも、少なくともこのような伝承が生まれる背景として、足利氏と市原には深い関係があったんでしょうね。
市原には鎌倉時代から、足利氏の重要な所領があったしね。その他にもいろいろあるわよ。
 まあ、古代からあまり脱線するのも何なので、足利さんの話はまた別の機会に。
足利義明Profile
 長享元年(1487)、古河公方足利政氏の子として生まれる。若くして出家したらしく、鶴岡八幡宮の社僧として「空然」と称していたが、やがて下野国に入り「宗済」と改名した後、還俗して義明と名乗った。永正年間には上総の真里谷武田氏に奉戴され、千葉氏家臣の原氏を攻め、その居城である下総国小弓城に入った。義明は「小弓公方」として自立した公権力の樹立を目指したので、兄の古河公方足利高基と対立することになった。
 天文2年(1533)ころに起こった真里谷武田氏の内紛では、自派の武田信応(のぶまさ)を擁立することで、同氏に対する影響力を強固なものにした。同時に房総南部の大名里見義堯(よしたか)を傘下に加え、大きな勢力圏を構築するに至る。
 天文7年(1538)、義明はこれらの軍勢を率い古河公方足利晴氏と対立するが、晴氏を援ける北条氏綱と下総国国府台で合戦し、戦死した。この戦いは「第一次国府台合戦」と呼ばれ、小弓公方の滅亡で幕を閉じた。小弓城も北条方の軍勢に攻め落とされ、原氏が復帰している。しかし義明の子孫は里見氏に庇護され、存命した。孫の足利国朝は豊臣秀吉の計らいで古河公方足利義氏の娘を娶り、下野国喜連川藩を興した。

古河公方とは
 室町時代は京都に幕府が置かれたが、関東・東北と伊豆・甲斐国の行政は、幕府の出先機関「鎌倉府」の管轄であり、独立した機構を備える小幕府のような存在だった。その長を「鎌倉公方」と呼び、足利基氏(尊氏の次男)の子孫が世襲している。しかし5代目の足利成氏は、享徳3年(1455)に起こった享徳の乱で鎌倉を追われ、下総国古河に入ったので、これ以降を「古河公方」と呼ぶ。自立し敵対関係に育った小弓公方を滅ぼすことには成功したが、次第に戦国大名北条氏の傀儡と化した。
五所の街道風景 (左) 五所の旧街道。ここも近世に賑わった街道集落です。

5-1(左下) 若宮八幡神社。飯香岡八幡宮の元境内地とする伝承があり、宮司も両方を兼ねる兄弟のような神社です。国府推定地方面とメインルートを結ぶ古代主要道に参道を向けます。飯香岡八幡宮とともに「市原八幡宮」の系譜を引く、中世国衙と関係深い社だったのでしょうか。

5-2(下) 若宮八幡神社境内から八幡市街を望む。神社は海岸砂丘帯の後背低地にあるので、周囲は今でも豊かな水田が広がっています。
若宮八幡神社 八幡神社の周辺風景
古代主要道の分岐点 6-1(左) 国府推定地に向かう分岐点です。左手、居酒屋の手前から左に入る小径も古代のルートを引き継ぐもので、古代主要道のひとつとされるラインです。

6-2(右) メインルートから主要道を眺める。車がすれ違えないほどの小径。この先には四反田遺跡や市原条里制遺跡があり、実際に古代の道路跡が発見されています。さらに進むと、国府推定地の一つである郡本遺跡群に至ります。
古代主要道を望む 親王任国たる上総国の国司には、歴史上の有名人がたくさん補任されてるよね。彼らはこの場所を行き来したのかなあ。
 あなたはどうなの?覚えてんでしょう?
えーっ、うーん、どうだったかしら。忘れちゃった。だいぶ景色も変わったしね。
なるみちゃん、菅原孝標の女
支道の詳細はまた別の機会に。私たちは引き続きメインルートを下ります。次は君塚〜五井方面です。またご一緒しましょう。