菅原孝標女生誕1000年記念特集
更級日記座談会


第3回 国司階級と任国の関係について

 菅原孝標をはじめとする国司は、政府が任命した中央貴族なので、4年の任期が満了すれば都に帰ってしまいます。そのため国府では、地方の有力者が雑任系の職に任じられ、政治を補佐していました。彼らを「在庁官人」(ざいちょうかんじん)と呼びます。
 国司と在庁官人は協力関係にありましたが、階級的な立場の相異から、深刻な対立に発展する場合も多くありました。
さとし学芸員、なるみ女史
さて、前回は国府政庁が衰退する話が出ました。国府の景観や機能は時代を経るごとに変化した、ということでしたね。
国府は本来、君が想像していたように、中心に国衙と呼ばれる役所施設があって、その政庁に役人が出仕して政治を行うものなのだけれど・・
菅原孝標のころは国衙政庁が衰えてしまっていて、国司の住まう国司館が政庁の役割も担うようになったのでしたよね。
さとし学芸員 政治の請負化が背景にあってね、請け負った側の「館」が政治の表舞台になったんだ。中世の幕開けをおぼろに控えた時代と言える。
 さらに平安末期になると、権守(ごんのかみ)や権介(ごんのすけ)などの在庁職を世襲する豪族領主が、国衙機構の中で大きな力を持つようになるから、国府の政治機能の一部が、彼らの館にも移ったはずだ。そんな背景もあってか、政府から国司に任命された貴族は、目代(代官)を派遣するのみで自らは現地に赴かない「遙任」(ようにん)となることが普通になる。ずいぶんな変わりようだけど、孝標のころから国衙機構が変化する兆しはあったのだろうね。
請負の体制は王朝国家の特徴ですからね。国司も在庁官人も例外ではない。
そう。都から下向する国司は、すでに国政をまるまる請け負う形になっており、「受領」(ずりょう)と呼ばれた。彼らは定められた官物を政府に納入さえすれば後は勝手。どんどん私財を蓄えるようになる。
 同時に地元では有力在庁職を名乗る豪族領主も育ちつつあって、両者協力の下に安定した国政が遂行されるのだけれども、逆に対立の火種も隠せなくなってきた時代だ。
国司の苛政と在庁官人の上訴ですか。教科書で習いましたよ。
任期が終われば都に帰ってしまう国司とちがい、在庁官人は地元の有力者だから、住民たちの利害を代表する立場に立つことが多かったのだね。
 在庁官人らが結託し、国司の苛政を中央政府に訴える例が頻発している。
 教科書に出てくる「尾張国郡司百姓等解文」(おわりのくにぐんじひゃくせいらのげぶみ)などはその典型だ。
尾張国の有力者たちが国守藤原元命(ふじわらのもとなが)の苛政を政府に訴えた文書ですね。
訴えた側は在庁官人が中核となったのだろう。結果的に元命は国司を辞めさせられるが、勝訴した在庁官人側には、尾張国の住人たちの強い支持があったと見てよいと思う。
尾張国郡司百姓等解文
尾張国郡司百姓等解文 写真は弘安4年(1281)8月5日の写し。
 『荻野研究室収集文書』 早稲田大学図書館所蔵

 永延2年(988)11月8日、尾張国の郡司や百姓らが、国守藤原元命の悪政を政府に訴え出た文書。「解文」とは上級官庁に提出する上申書のこと。郡司は国司の下の地方官で、国内の有力者が任じられました。そしてここでの「百姓」とは農民一般のことではなく、広く人民を支配するような富裕層を指します。
 この文書に見られるような訴訟活動を「国司苛政上訴」(こくしかせいじょうそ)と呼んでいます。かならずしも国司の苛政ばかりが原因とは言えず、中央政府の課税方針を忠実に実行しようとする国司が訴えられやすい傾向にあったことから、地元有力者側の私欲的な部分も無視できないようです。
 このような訴えは、地方有力者が国司に対して行う階級的な闘争の手段として、菅原孝標の時代に頻発しました。
藤原元命に限らず、強欲国司の伝承は多いですよね。
 『今昔物語』で「受領は倒るるところに土をつかめ」という名言を言い放った信濃守藤原陳忠などが思い浮かびます。
 まあ、われらが菅原孝標については、同じ国司階級ではあるけれど、『更級日記』を読む限り渡世の下手な好人物って感じですから、上総でもあまり強欲な政治は執らなかったのではないかしら。
そうであってほしいし、そうであったようにも思えるけれど、地元の人たちにとっての国司像なんて、基本的に「都からやってきた簒奪者」って感じだったのではないの?
 階級の違いって、そういうものでしょう?
 国司の人柄もあるのだろうけど、菅原孝標だって大同小異だろう。
まあっ。身も蓋もないことを。
さとし学芸員、なるみ女史
人情やロマンで歴史は語れないよ。
 『更級日記』は国司階級の物語。
 中央ではうだつの上がらない国司の娘として育ち、妥協の結果、国司の妻にならざるを得なかった夢多き女性の後悔と諦念を紡いだ作品だけれど、作者がいかに物語的な世界に憧れながらも、現実的な結婚を選択し、物質的に満ち足りた環境を得た事実があってこその話だろう?
 その富については、父や夫が国司だったことを無視できないよね。父の菅原孝標は上総介と常陸介、夫の橘俊通は下野守と信濃守だ。
たしかに。
 『更級日記』では、上総介の任期が終わった孝標がどこかの国司に補任されるのを一家ぐるみで切望するのだけれども、かなわないもどかしさが記されていますね。
 年老いてからようやく常陸介に補任された折も、孝標は「前世からの因縁が悪かったから、あんな遠い国の長官に任じられてしまった」とさんざん愚痴をこぼしつつ、「しかしやっと得た国司の職を辞するわけにもゆくまい」と言って任地に下っています。
 年老いた身で遠隔の地に単身赴任する心細さがいかに大きくても、その苦労を補って余りある利益が望めたのでしょう。

 夫となった橘俊通が下野守に任官していた時期も、孝標女は都に止まり、祐子内親王家へ二度目の宮仕えに出ています。
 そこでは「私はひたすら宮仕えのみに頼らなければならぬ身の上ではないのだし」と気楽に構えてますから、受領の妻としての経済的な安定が見て取れますね。
寺社詣でに向かう
上 物詣に向かう菅原孝標女の一行
 夫の帰京後、菅原孝標女は寺社詣でに熱を入れます。貴族の物詣は、信仰以外に行楽的な目的が多分にありました。菅原孝標女一行の参詣姿は、滋賀県大津市の石山寺に伝わる重要文化財『石山寺縁起』に描かれ有名です。

菅原孝標女
夫の帰京後は物詣に精を出しますが、貴族女性の物詣は、寺社に局を与えられ数日お籠りするのが常で、多額の布施を伴ったのでしょう。
 旅の道中も、身辺の世話を焼く女性たちや警護の侍など、それなりの人数が同行したので、かなり経費が嵩んだはずです。
 そのようなイベントを頻繁に行えたのですから、夫や父が経済面で豊かだったことは確かだと思います。
 それは国司任官期の収益によるところが大きかったのでしょう。
俊通も孝標も、普通の国司なみに取れるところは取った、というところかな(笑)。
まあ、菅原孝標が上総介だった頃の最有力在庁官人が、あの平忠常だとしたら、孝標側から彼らに妥協する場面を想像しちゃいますけど。
平忠常は、後に房総を舞台に反乱を起こした人だね。
それについては次回で語り合うことにしよう。
次回は中央政府を震撼させた平忠常の乱について、語り合いたいと思います。