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更新日:2012年3月12日
最終更新日:2005年5月1日
行政機関の中心である市役所へのメイン通りで、市民にも、また、来訪者にも行政機関の集中している行政核をわかりやすくすることから、通りの愛称になったものです。
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行政の核、市役所へのメインアプローチにふさわしく、がっちりとした構成とシンボリックなかたちが特長のモニュメントです。全体は、「市原」の「市」をモチーフとしてまとめられ、ステンレスのシャープで華やかな質感と、御影石の端正な風格が深い味わいを生み出しています。中心の石の柱は、そこから四方へのびる町並みの表現です。緊密な意匠が協力、調和の姿をおのずから語りかけています。 |
この路線の中間部にあたる山田橋地先で銀象嵌「王賜」銘の鉄剣が出土しました。この鉄剣は、5世紀当時、国内統一を急ぐ時の天皇により下賜されたと考えられ、古代国家成立過程を考えるうえで一級の資料である。そこで、この鉄剣の出土した稲荷台1号古墳に着目し、この愛称となりました。
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この通りの中間部に位置する稲荷台1号古墳より出土した鉄剣と古墳のフォルムをモチーフとしています。大きな石の持つ存在感を活かしつつ全体に重々しくなり過ぎぬよう鉄剣のフォルムをくりぬきで表現しています。また、稲荷(五穀をつかさどる神の呼び名)の地名より五穀の一つである「稲」のレリーフを配しました。 |
沿線にある「飯香岡八幡宮」は、八幡の語源ともなっており、また神社の本殿及び拝殿は、歴史的建造物として、国の重要文化財や県の文化財に、境内にある「夫婦いちょう」は、県の天然記念物として、それぞれ指定を受け、市の中でも貴重な文化遺産を有し、多くの市民に親しまれていることから、この愛称となりました。
この通りの周辺には公園や緑地が多く、通りとして平行して歩行者専用道路が通るなど、公園的な要素が多い地域であることから、この愛称となりました。
この通りの中間にある白金地区は、市になって最初の区画整理事業が行われたところで、この通りのほぼその全線がその後の区画整理事業によってつくられたことから、区画整理発祥の地をとって、通りの愛称がつけられたものです。
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住民のふれあい、親しみやすさ、多くの市民の憩いの場所にとの願いを、愛らしい子どもたちのブロンズ像に託しました。また、台座と同デザインの小さな椅子を設けることで、待ち合わせの人々や、信号待ちのお年寄りが利用できるよう、そして実際小さなこどもがそこに腰掛ける姿とブロンズ像の関係が、より一層ほのぼのとした空間を創り出しています。白御影石の台座は、白金通りの「白」を表現し、ブロンズ像は、「金」を象徴しています。 |
平成元年に、道路や坂道に愛着と親しみをもってもらおうと始まった愛称選定事業を記念して、市道のなかでは隣接の千葉市と袖ヶ浦市を結ぶ重要な都市間幹線であるこの通りを、その年号に因んだ愛称となりました。
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新しい時代に入り誕生した道であることから、シンメトリーな平成の「平」をデザインし、また、昭和28年市内金杉地区に姿を見せた「トキ」を自然の象徴としています。時代の要請となっている科学技術と自然環境の調和をイメージしています。 |
JR八幡宿駅東口から真っすぐに伸びる路線であり、市民にも分かり易いことから、この愛称となりました。
昔、この通りの沿線一帯は、遠浅の海岸で、海苔の養殖やアサリ、ハマグリ等の採取が盛んで、夏には多くの海水浴客で賑わっていました。この頃の様子を後世に伝えるため、海に因んだ愛称となりました。
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その昔、この通りの沿線は、遠浅の海岸で、海苔の養殖や、あさり、あおやぎなど海産物の豊富な漁場として栄えていました。現在は海が遠くなり、すっかり姿を変えたこの地区ですが、そのような歴史があったことを伝承してほしいとの意を込め、貝類、六段線(海苔種付け高さ基準標)、ウミネコなどを象徴的にシンボライズしました。また、黒御影石の上部は、五大力船の澪を波頭で表現し、羽を広げたウミネコは、万葉集巻七にあり、この地区を詠んだと推定される~夏麻引く海上潟の沖つ州に鳥はすだけど君は音もせず~からヒントを得て、潮待ちから飛び立つ姿をしています。 |
五井地区の中央部を走るこの道路の性格に着目して、この愛称となりました。
五井の本仲地区を通るこの路線は、以前より通称名として「本仲線」と呼称されてきました。この沿線で生活をしている多くの人々に、馴染み親しまれてきたこの名称を、正式に路線愛称とすることが最もふさわしいものとして選定しました。
この通りの中間に横たわる母なる川「養老川」は、昔、江戸との貨物輸送にあたった五大力船への積み下ろしをする川舟が行き交い、養老舟歌の聞こえる舟運で、吹上橋一帯は、大いに賑わいをみせていました。今、また、ふるさとの川づくりによって、通りの両岸は、再び憩いの場として、蘇ろうとしていることから、この愛称となりました。
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江戸のむかし、このあたりは五大力船の積み下ろしで賑わっており、のどかに船唄がこだましていたことでしょう。このモニュメントでは、なつかしく豊かな時間(とき)を船の帆のかたちに造形しています。あたたかい色調の御影石に川波のきらめきや水の流れが描かれ、のびやかにリズムを刻んでいます。 |
青柳地区を東西に通るこの道路の性格に着目して、この愛称となりました。
千種小学校、中学校の前面を通るこの道路が千種地区を代表する通りである点に着目して、この愛称となりました。
姉崎の語源となったといわれる「姉崎神社」が通りの正面に鎮座し、この神社を包み込むように深い緑に覆われた明神の森があって、町のオアシスになっており、地域の人々からは明神様と呼ばれるシンボル的な景観が親しまれています。この通りが駅前に位置する地区の中央幹線であることから、古代から地域に深くかかわりのあるこの森に因んで、この愛称となりました。
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通りの名称の由来となった明神さま(姉崎神社)と姉ヶ崎駅を結ぶ参道の入り口の鳥居をイメージさせるモニュメントです。その足元に低い植栽を配することで、遠くに見える神社の森との空間的なつながりを感じさせています。 |
この路線沿いの、ちはら台ニュータウンの南端には上総国分僧寺・国分尼寺に使用された川焼瓦窯跡があることから、この愛称となりました。
平安時代、上総国府に上総介として赴任していた菅原孝標の女が綴った「更級日記」の書き出しが、この周辺からの旅立ちで始まっていることから、この「更級日記」に因んで、通りの愛称がつけられたものです。
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更級(さらしな)日記の作者である菅原(すがわら)孝標(たかすえの)女(むすめ)が、父の任国である上総国から京に帰る時の姿をモチーフにしています。竹の清々とした柔軟性は、都で流行していた源氏物語の世界に憧れ、多感な少女時代を過ごした作者をイメージし、一方、虹の橋は、旅の到達点、京都との関係を強調しています。 |
市原市発展の原動力となった京葉臨海工業地帯を支える人々の住宅地として、市内で最初に行われた団地造成が辰巳台団地であることから、団地開発発祥の地名をとって、この愛称となりました。
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方位表現のもととなった辰(龍)と巳(蛇)を風見のモチーフとし、豊かな自然を現すスクリーンの上に配したモニュメントです。木々の緑の間に通りの名称をあしらったスクリーンは、自然の中を走る道路の表現となっており、伝統的な台座のかたちである八角形がこれを支える、木々の間を吹き抜ける風が、辰と巳を造形した風見を軽やかに動かす個性的な意匠となってます。 |
菊間団地の中央部を通るこの道路の性格に着目して、この愛称となりました。
国分寺地区の中央部を南北に通るこの道路の性格に着目して、この愛称となりました。
大厩とは、古代の駅(うまや)または馬牧との関連もあり、大馬屋とも記されています。「飯香岡八幡宮由緒縁起本記」によると、治承4年(西暦1180年)に源頼朝寄進の神領地として「大厩谷」の記述が見えます(角川地名大辞典から引用)。こうした由緒ある地名に着目し、この愛称となりました。
この路線の沿線に、帝京平成看護短期大学や小学校、中学校等があることから、この愛称となりました。
奈良時代、市原市は上総国の中心地として栄えました。律令国家の地方の象徴的営造物であった国分寺には、現在の市庁舎よりも高い七重の塔が境内に建てられていました。そこで、この地区を南北に通り抜けるこの路線の愛称として、この由緒ある名称がつけられたものです。
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その昔、上総の青空にそびえていた国分寺の甍(いらか)をモチーフに、金属の華やかなきらめきと自然石の深い味わいとを調和させたモニュメントです。国分寺跡から出土した鐙(あぶみ)瓦と軒瓦が遠く古代への夢を誘い、誇るべき郷土の歴史を語りかけています。 |
この路線の沿線にある市原市の史跡「奈良の大仏」に着目して、この愛称となりました。
この路線の沿線は、ほとんどが山間部です。そこで、市の鳥である「うぐいす」のさわやかな鳴き声をイメージして、愛称となりました。
昭和40年代に造成されたこの団地は、それまでの社宅中心ではなく、本市では、初めての一般住宅中心の団地でした。通過交通量が比較的多いこの路線にあっては、団地の名称をそのまま使うことがなじみやすく、また呼称の語感も快い点に着目し、この愛称となりました。
この路線は、青葉台団地の中心地区・商業地区を通ります。今回、この団地内に2本の道路愛称を付けることになりましたが、同一団地内の愛称に一体感を持たせることが望ましいと考え、この路線の性格をそのまま、愛称としました。
市の施策として誘致に努めた帝京大学医学部附属病院が、この道路の中央部にある点に着目して、この愛称となりました。
この道路の中心部が立野地区であるため、この点に着目して、この愛称となりました。
この道路の中心部にある公園式の市営「能満墓園」に着目して、この愛称となりました。
この道路の中心部が、能満四辻である点に着目して、この愛称となりました。
市原市発展の原動力となった京葉臨海工業地帯を支える人々の住宅地として、市内で最初に行なわれた団地造成が辰巳台団地であります。命名にあたり、この団地の東西の環状路線の東側にあたることから、この愛称となりました。
この路線の沿線には、果樹類を栽培する農園が集積しており、特に梨の栽培が盛んであります。今後の農業振興のさらなる活性化に期待を込め、この愛称となりました。
かつて漁業が盛んだったころ、沿線には松が茂り、その遠望から「松ヶ島(松の島)」と呼ばれるようになった歴史があることから、この愛称となりました。
けやきは、日本の代表的な広葉樹で成育がよく、寿命の長い木として、その巨木は天然記念物に指定されることも多くあります。春の芽吹き、秋の紅葉、冬に見せる特有の樹景、四季の移ろいをそっと教えてくれる。この街路樹のけやき並木に因んで、通りの愛称となりました。
青葉台団地に隣接するみどりが丘団地内のこの路線は、正に団地の中心部を通って県道千葉鴨川線に接続している。団地の名称をそのまま使うことで、なじまれやすいこと、また呼称の語感が快いことに着目し、この愛称としてなりました。
桜台団地中心部を通るこの路線にあっては、この団地の名称をそのまま使うことで、なじまれやすいと判断しました。また、呼称の語感も快く、この点でもふさわしいものと考えました。表記にあたっては、桜ではなく、あえて「さくら」とし、一層の優しさを表現しうるものとして、この名称となりました。
団地に程近いところに「若宮神社」があって、その周辺一帯は、菊間字若宮の地となっています。昔、若宮団地の区域内にも若宮の地は広がっていたが、今は町名地番の変更によって、団地名に生まれ変わりました。そして、この通りが団地の中心的存在であることから、「愛・美・躍動」をキャッチフレーズにした青年都市・市原市のイメージにもよくマッチする若宮の名をとって、この愛称となりました。
市原市発展の原動力となった京葉臨海工業地帯を支える人々の住宅地として、市内で最初に行なわれた団地造成が辰巳台団地であります。命名にあたり、この団地の東西の環状路線の西側にあたることから、この愛称となりました。
光風台団地は、本市中部に位置し、小湊鉄道の新駅として「光風台」も作られ、この地域を代表する本格的な団地であります。この団地の中央部を通る路線名称として、団地の名称をそのまま愛称とすることが、最もなじみやすく、また呼称の語感も快い点に着目し、この愛称となりました。
光風台団地の今一つの路線である「光風通り」に、県道南総・姉崎線から接続するこの路線は、団地内道路でありながら通過交通の多い路線であります。すなわち、この路線は、この団地の一方の中心路線であります。そこで、こうした要素を念頭におき、団地名称の後に通りの性格を付加し、愛称名がつけられたものです。
この道路は、県道南総清澄ラインが両端を接続して、高滝湖畔を周回します。そこで、この湖を中心とした周辺開発等の今後の展望を念頭に置き、英語読みの愛称名がつけられたものです。
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豊かな自然景観を残す高滝ダム周辺に、ハイキングに訪れる若者が休憩するひとときを、健やかに表したモニュメントです。日常的なコスチュームやしぐさ、表情により、地域に住む人々や行楽に訪れた人々に、親しみやすさをもって語りかけています。この地を訪れた人々が、自然とともにある像に触れ、地域の美しさを感じ取り、地域に住む人々には、ステイタスとして存在しています。 |
問合先
土木部土木管理課電話/0436-23-9831eメール/dobokukanri@sc.city.ichihara.chiba.jp